第10話 ノアの目
クドウが送ってくれた透明な道具を、初めて森に持ってきたのはその翌朝のことだった。
ティナはまだ来ていない。一人で、境の樹への道を歩きながら、籠の中でそれがかたこと揺れる音を聞いていた。
昨日の夜、何度か手に取ってみた。自分の手のひらを近づけると、指紋の溝まで見えた。爪の端の、小さな傷まで。虫眼鏡、とソラは言っていた。虫の目、という意味らしい。虫が世界をこんなふうに見ているのなら——虫の目というのは、確かに正しい名前だと思った。
「おはよう、ソラ」
箱に触れると、すぐに光が走った。
「おはようございます、ノア。今日は一人ですか?」
「ティナは後で来る。先に森を回っておきたくて」
「なるほど。クドウさんの道具、持ってきましたか?」
「うん。今日、使ってみる」
◇
美緒が研究室に着いたとき、工藤はすでに端末の前にいた。
「早いですね」
「サルベ草の分析結果が出た」
工藤が画面を指さした。
データが並んでいる。美緒には専門外の部分も多いが、工藤の顔が普段と違うのはわかった。
「どうでした?」
「テルペン系の成分を複数含んでいる。消炎作用と鎮痛作用が期待できる構造だ。既存の生薬と成分が似ているが——配合の比率が独特で、見たことがない組み合わせになっている」
「向こうの世界ならではの成分ということ?」
「可能性がある。さらに詳しく調べたい」
「ノアのおばあさん、ずっと使ってきたんですよね」
「そうだ。経験則として効果があることはわかっていた。なぜ効くのかを、これから解明できる」
美緒は画面を見つめた。
どこかの村の薬師の祖母が、長年積み上げてきたもの。それが今、この研究室の端末の中に広がっている。
「ノアに報告しましょう」
「ああ。彼が喜ぶかどうかより——知らせる義務がある」
◇
岩棚の下にたどり着いたのは、森を一回りしてからのことだった。
ハッカに似た草の群生地。先日ティナが葉を採っていった場所。今日は一人で、腰を下ろして、透明な道具を取り出した。
一枚の葉を摘んで、近づけてみる。
「——」
声にならなかった。
表面に、細かい突起が並んでいる。霜が降りたような、白い毛。それが規則正しく、葉脈の方向に沿って向きを揃えている。こんなに整然と並んでいたとは、知らなかった。
もう少し角度を変える。
葉の縁が、のこぎりの歯のように細かく刻まれている。その一つひとつに、さらに小さな突起がある。
「すごい」
呟いた。
毎日この森を歩いていた。母さんに連れられて、ハンナばあちゃんに教えてもらって、何百という葉を手に取ってきた。でも——こんなに細かく見たことは、なかった。
見えているつもりで、見えていなかったものが、こんなにあったのか。
「ノア、何か見えましたか?」
ソラの声が、箱から聞こえた。
「葉の毛が——全部、同じ方向を向いてる。規則正しく」
「それは重要な観察です。毛の向きや密度は、植物の種を特定する手がかりになります。記録しておいてもらえますか?」
「どうやって?」
「黒い棒で、図に描いてみてください。向きと密度がわかるように」
僕は地面に、葉の形を描いた。それから、毛の向きを短い線で書き込んでいく。細かい作業だったが、透明な道具をもう一度覗きながらやると、思ったより正確に描けた。
「上手です。ミオさんに見せましょう」
◇
「これ、描いたんですか? ノアが?」
楓太が画面を覗き込んで言った。
「そうだ。クドウの虫眼鏡を使って」
工藤が腕を組んだ。
「葉の表面構造の観察スケッチとして、十分な精度がある」
美緒はモニターを見た。
ノアが箱の前に、地面に描いた図を掲げている。丁寧な線で、葉の輪郭と毛の向きが記されていた。
「植物学の基礎を教えたわけでもないのに、こういう描き方を自然にするんですね」
「観察眼があるからだ。道具を渡せば、自分で使い方を見つける」
「ノアのおばあさん、なんて言ってましたっけ。ノアはいい目をしている、って」
「そういうことだ」
工藤が、静かに言った。
◇
「ノア、サルベ草のことを伝えてもいいですか」
ソラが言った。
「工藤さんから、分析の結果が出たと連絡がありました」
「分析?」
「ノアが送ってくれたサルベ草を、こちらの世界の道具で詳しく調べました。痛みを和らげる成分が含まれていることが確認できました。しかも——こちらの世界では見たことのない、特別な組み合わせで」
僕は、しばらく黙っていた。
「ばあちゃんが、ずっと使ってきた草だ」
「はい。長い時間をかけて、正しいものを見つけてきたということです」
「ばあちゃんは、なんで効くかは知らない。ただ、効くことを知っていた」
「経験が、答えを知っていたんですね」
僕は籠の中のサルベ草を見た。今日も採ってきた、いつもの草。何も変わっていない。でも——少し、違って見えた。
ミオが、枠の前に出てきた。
「ノア。クドウが——もう少し、サルベ草、送ってほしい、って」
「また送る?」
「うん。もっと詳しく調べたい。ノアのばあちゃんの——ちしき、大事にしたい」
「わかった。根を残して、また採ってくる」
クドウが枠の奥から、短く頷くのが見えた。口数の少ない人だ。でも——頷き方が、ちゃんと伝わってくる。
◇
昼過ぎにティナが来た。
籠から、乾いた葉の束を取り出して、得意げに差し出してくる。
「できた。三日で乾いたよ」
あのハッカに似た草だ。乾燥させると、葉の色が少し濃くなって、香りがより鋭くなっていた。
「どう使うの? ソラに聞いてみよう」
「そうしよう」
箱を取り出して、ティナが乾燥した葉を枠の前に掲げた。
「ソラ、できました! 三日で乾きました!」
「よくできました、ティナさん。色と香りはどうですか?」
「色は濃くなって、においがすごく強くなった。なんか、目が覚めるみたいな感じ」
「それは成分が凝縮されているサインです。使い方をお伝えしますね」
ソラが、ゆっくりと説明を始めた。
乾燥した葉を少量、湯に浸して飲むと、熱や頭の痛みに効く。そのまま潰して傷に当てると、化膿を防ぐ。虫よけにもなる。
「一つの草で、そんなに使えるの?」
ティナが目を丸くした。
「こちらの世界では、古くからそのように使われてきました。ノアの世界でも同じように使えるかどうかは、少しずつ試してみてください」
「少しずつ、か」
僕は乾燥した葉を受け取って、手の中で転がした。
清涼感のある香りが、指先に移った。
この草は、ずっとここに生えていた。村の誰も気にしなかった草が、こんなに使えるものだったとは。
「名前、つけようか」
ティナが言った。
「え?」
「この草。ノアの世界では名前がないんでしょ。だったら、つければいい」
「……なんて呼ぶ?」
ティナが少し考えてから、にっと笑った。
「スズカ草、はどう? その、鈴みたいな形の実がなってたから」
「スズカ草」
「悪くないでしょ」
僕は、もう一度葉を手に取った。
スズカ草。今日から、この草にはこの名前がついた。
◇
「命名した、と言っていますか?」
楓太が身を乗り出した。
「そうです。ティナさんがスズカ草と呼ぶことにしたようです」
ソラが答えた。
「かわいい名前ですね」
「学術的にはともかく」
工藤が言いながら、端末にメモを打ち込んでいる。
「向こうの世界でその植物を識別するための固有名が生まれた、ということだ。ノアとティナの間で使える言葉が、また一つ増えた」
美緒は静かに頷いた。
言葉が生まれる瞬間というのは、こういうものかもしれない。誰かが見つけて、誰かが名前をつけて、その名前を誰かが受け取る。
「記録しておきます。スズカ草——暫定名称として」
ソラが穏やかに言った。
◇
夕方、箱を洞に戻す前に、僕はもう一度透明な道具を取り出した。
境の樹の幹に近づけて、樹皮を覗いてみる。
細かい溝が、幾重にも走っている。その隙間に、小さな苔が生えていた。肉眼ではただの緑の染みにしか見えなかったものが、透明な道具越しには、ちゃんと葉の形をしていた。
小さな世界が、幹の上に広がっていた。
誰も気づかないまま、ここにずっとあったもの。
母さんが言っていた。
「ノアはいい目をしているね。細かいものをよく見る」
いい目。
透明な道具があれば、もっと細かく見える。でも——見ようとする目がなければ、道具があっても意味がない。
道具は、目を替えない。
ただ、目の先を、少し遠くまで延ばしてくれる。
「ソラ」
「はい」
「ミオたちが来る前から——僕は、ずっとこの目を持ってたんだよな」
「そうですね」
「気づいてなかった」
「自分の目で見ているものは、自分には当たり前すぎて、見えにくいですから」
「ミオたちが、教えてくれた」
「教えたというより——気づかせてくれた、ではないでしょうか」
僕は透明な道具を籠にしまった。
境の樹が、夕風に揺れている。あの日、もやもやした光の中からこの箱が現れた、同じ根元に立って、今日も同じ夕暮れを見ている。
でも——見えているものが、あの日とは、少し違う。
「おやすみ、ソラ」
「おやすみなさい、ノア。また明日」
箱を洞に入れて、下草で蓋をする。
村への道を歩きながら、スズカ草の香りがまだ指先に残っているのに気づいた。
名前のなかったものに、名前がついた。
見えていなかったものが、見えてきた。
まだ知らないことが、森にはたくさんある。
それは——少しも、怖くなかった。
この物語を読んでくださって、ありがとうございます。
森にはまだ、名前のついていない草がたくさんあります。枠の向こうには、ノアの知らない「ちがう力」がまだたくさんある。二つの世界が、少しずつお互いを知っていく物語を、どうかこれからも一緒に歩いてもらえたら嬉しいです。
次の話も、森でお会いしましょう。




