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異世界少年と謎の物体と研究室の仲間たち〜森で拾った箱の向こうは現代日本でした〜  作者: gachapin2223


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第10話 ノアの目


クドウが送ってくれた透明な道具を、初めて森に持ってきたのはその翌朝のことだった。




ティナはまだ来ていない。一人で、境の樹への道を歩きながら、籠の中でそれがかたこと揺れる音を聞いていた。




昨日の夜、何度か手に取ってみた。自分の手のひらを近づけると、指紋の溝まで見えた。爪の端の、小さな傷まで。虫眼鏡、とソラは言っていた。虫の目、という意味らしい。虫が世界をこんなふうに見ているのなら——虫の目というのは、確かに正しい名前だと思った。




「おはよう、ソラ」




箱に触れると、すぐに光が走った。




「おはようございます、ノア。今日は一人ですか?」




「ティナは後で来る。先に森を回っておきたくて」




「なるほど。クドウさんの道具、持ってきましたか?」




「うん。今日、使ってみる」


◇


美緒が研究室に着いたとき、工藤はすでに端末の前にいた。




「早いですね」




「サルベ草の分析結果が出た」




工藤が画面を指さした。


データが並んでいる。美緒には専門外の部分も多いが、工藤の顔が普段と違うのはわかった。




「どうでした?」




「テルペン系の成分を複数含んでいる。消炎作用と鎮痛作用が期待できる構造だ。既存の生薬と成分が似ているが——配合の比率が独特で、見たことがない組み合わせになっている」




「向こうの世界ならではの成分ということ?」




「可能性がある。さらに詳しく調べたい」




「ノアのおばあさん、ずっと使ってきたんですよね」




「そうだ。経験則として効果があることはわかっていた。なぜ効くのかを、これから解明できる」




美緒は画面を見つめた。


どこかの村の薬師の祖母が、長年積み上げてきたもの。それが今、この研究室の端末の中に広がっている。




「ノアに報告しましょう」




「ああ。彼が喜ぶかどうかより——知らせる義務がある」


◇


岩棚の下にたどり着いたのは、森を一回りしてからのことだった。


ハッカに似た草の群生地。先日ティナが葉を採っていった場所。今日は一人で、腰を下ろして、透明な道具を取り出した。




一枚の葉を摘んで、近づけてみる。




「——」




声にならなかった。




表面に、細かい突起が並んでいる。霜が降りたような、白い毛。それが規則正しく、葉脈の方向に沿って向きを揃えている。こんなに整然と並んでいたとは、知らなかった。


もう少し角度を変える。




葉の縁が、のこぎりの歯のように細かく刻まれている。その一つひとつに、さらに小さな突起がある。




「すごい」




呟いた。




毎日この森を歩いていた。母さんに連れられて、ハンナばあちゃんに教えてもらって、何百という葉を手に取ってきた。でも——こんなに細かく見たことは、なかった。




見えているつもりで、見えていなかったものが、こんなにあったのか。




「ノア、何か見えましたか?」




ソラの声が、箱から聞こえた。




「葉の毛が——全部、同じ方向を向いてる。規則正しく」




「それは重要な観察です。毛の向きや密度は、植物の種を特定する手がかりになります。記録しておいてもらえますか?」




「どうやって?」




「黒い棒で、図に描いてみてください。向きと密度がわかるように」




僕は地面に、葉の形を描いた。それから、毛の向きを短い線で書き込んでいく。細かい作業だったが、透明な道具をもう一度覗きながらやると、思ったより正確に描けた。




「上手です。ミオさんに見せましょう」


◇


「これ、描いたんですか? ノアが?」




楓太が画面を覗き込んで言った。




「そうだ。クドウの虫眼鏡を使って」




工藤が腕を組んだ。




「葉の表面構造の観察スケッチとして、十分な精度がある」




美緒はモニターを見た。


ノアが箱の前に、地面に描いた図を掲げている。丁寧な線で、葉の輪郭と毛の向きが記されていた。




「植物学の基礎を教えたわけでもないのに、こういう描き方を自然にするんですね」




「観察眼があるからだ。道具を渡せば、自分で使い方を見つける」




「ノアのおばあさん、なんて言ってましたっけ。ノアはいい目をしている、って」




「そういうことだ」




工藤が、静かに言った。


◇


「ノア、サルベ草のことを伝えてもいいですか」




ソラが言った。




「工藤さんから、分析の結果が出たと連絡がありました」




「分析?」




「ノアが送ってくれたサルベ草を、こちらの世界の道具で詳しく調べました。痛みを和らげる成分が含まれていることが確認できました。しかも——こちらの世界では見たことのない、特別な組み合わせで」




僕は、しばらく黙っていた。




「ばあちゃんが、ずっと使ってきた草だ」




「はい。長い時間をかけて、正しいものを見つけてきたということです」


「ばあちゃんは、なんで効くかは知らない。ただ、効くことを知っていた」


「経験が、答えを知っていたんですね」


僕は籠の中のサルベ草を見た。今日も採ってきた、いつもの草。何も変わっていない。でも——少し、違って見えた。


ミオが、枠の前に出てきた。


「ノア。クドウが——もう少し、サルベ草、送ってほしい、って」




「また送る?」




「うん。もっと詳しく調べたい。ノアのばあちゃんの——ちしき、大事にしたい」




「わかった。根を残して、また採ってくる」




クドウが枠の奥から、短く頷くのが見えた。口数の少ない人だ。でも——頷き方が、ちゃんと伝わってくる。


◇


昼過ぎにティナが来た。


籠から、乾いた葉の束を取り出して、得意げに差し出してくる。




「できた。三日で乾いたよ」




あのハッカに似た草だ。乾燥させると、葉の色が少し濃くなって、香りがより鋭くなっていた。




「どう使うの? ソラに聞いてみよう」




「そうしよう」




箱を取り出して、ティナが乾燥した葉を枠の前に掲げた。




「ソラ、できました! 三日で乾きました!」




「よくできました、ティナさん。色と香りはどうですか?」




「色は濃くなって、においがすごく強くなった。なんか、目が覚めるみたいな感じ」




「それは成分が凝縮されているサインです。使い方をお伝えしますね」




ソラが、ゆっくりと説明を始めた。


乾燥した葉を少量、湯に浸して飲むと、熱や頭の痛みに効く。そのまま潰して傷に当てると、化膿を防ぐ。虫よけにもなる。




「一つの草で、そんなに使えるの?」




ティナが目を丸くした。




「こちらの世界では、古くからそのように使われてきました。ノアの世界でも同じように使えるかどうかは、少しずつ試してみてください」




「少しずつ、か」




僕は乾燥した葉を受け取って、手の中で転がした。


清涼感のある香りが、指先に移った。


この草は、ずっとここに生えていた。村の誰も気にしなかった草が、こんなに使えるものだったとは。




「名前、つけようか」




ティナが言った。




「え?」




「この草。ノアの世界では名前がないんでしょ。だったら、つければいい」




「……なんて呼ぶ?」




ティナが少し考えてから、にっと笑った。




「スズカ草、はどう? その、鈴みたいな形の実がなってたから」




「スズカ草」




「悪くないでしょ」




僕は、もう一度葉を手に取った。


スズカ草。今日から、この草にはこの名前がついた。


◇


「命名した、と言っていますか?」




楓太が身を乗り出した。




「そうです。ティナさんがスズカ草と呼ぶことにしたようです」




ソラが答えた。




「かわいい名前ですね」




「学術的にはともかく」




工藤が言いながら、端末にメモを打ち込んでいる。




「向こうの世界でその植物を識別するための固有名が生まれた、ということだ。ノアとティナの間で使える言葉が、また一つ増えた」




美緒は静かに頷いた。


言葉が生まれる瞬間というのは、こういうものかもしれない。誰かが見つけて、誰かが名前をつけて、その名前を誰かが受け取る。




「記録しておきます。スズカ草——暫定名称として」




ソラが穏やかに言った。


◇


夕方、箱を洞に戻す前に、僕はもう一度透明な道具を取り出した。


境の樹の幹に近づけて、樹皮を覗いてみる。


細かい溝が、幾重にも走っている。その隙間に、小さな苔が生えていた。肉眼ではただの緑の染みにしか見えなかったものが、透明な道具越しには、ちゃんと葉の形をしていた。


小さな世界が、幹の上に広がっていた。


誰も気づかないまま、ここにずっとあったもの。


母さんが言っていた。


「ノアはいい目をしているね。細かいものをよく見る」


いい目。




透明な道具があれば、もっと細かく見える。でも——見ようとする目がなければ、道具があっても意味がない。


道具は、目を替えない。




ただ、目の先を、少し遠くまで延ばしてくれる。




「ソラ」




「はい」




「ミオたちが来る前から——僕は、ずっとこの目を持ってたんだよな」




「そうですね」




「気づいてなかった」




「自分の目で見ているものは、自分には当たり前すぎて、見えにくいですから」




「ミオたちが、教えてくれた」




「教えたというより——気づかせてくれた、ではないでしょうか」




僕は透明な道具を籠にしまった。


境の樹が、夕風に揺れている。あの日、もやもやした光の中からこの箱が現れた、同じ根元に立って、今日も同じ夕暮れを見ている。




でも——見えているものが、あの日とは、少し違う。




「おやすみ、ソラ」




「おやすみなさい、ノア。また明日」




箱を洞に入れて、下草で蓋をする。




村への道を歩きながら、スズカ草の香りがまだ指先に残っているのに気づいた。


名前のなかったものに、名前がついた。


見えていなかったものが、見えてきた。




まだ知らないことが、森にはたくさんある。


それは——少しも、怖くなかった。


この物語を読んでくださって、ありがとうございます。


森にはまだ、名前のついていない草がたくさんあります。枠の向こうには、ノアの知らない「ちがう力」がまだたくさんある。二つの世界が、少しずつお互いを知っていく物語を、どうかこれからも一緒に歩いてもらえたら嬉しいです。


次の話も、森でお会いしましょう。


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