第11話 熱
朝、村の広場を横切ろうとしたとき、ダグの姿が目に入った。
走っていた。
ダグが走るのは珍しくない。でも——あの走り方は、違った。いつもの、俺が一番だという走り方じゃない。何かに追われているような、必死な走り方だった。
「ダグ」
呼ぶと、ダグが振り返った。
その顔を見て、胸がざわりとした。
青ざめている。目が、血走っている。
「……なんでもない」
それだけ言って、また走り出した。
その後ろ姿を見送りながら、僕は嫌な予感を覚えた。
夕方になってわかった。
ダグの家の末っ子、五歳のメルが、昨夜から高熱を出していると。
知らせてくれたのはティナだった。
「朝から様子がおかしくて。熱だけじゃなくて、お腹も壊してるって」
「コラルのときと、似てる?」
「もっと重いみたい。コラルのときは熱がそこまで高くなかったけど、メルはずっと下がらないって」
僕は、足元を見た。
高熱。腹下し。下がらない熱。
三年前、母さんが倒れたのも、最初はそういう症状だった。治癒魔法をかけてもらっても、熱は引かなかった。街から呼んだ治癒師が「私の手には負えない」と言った夜のことを、今でも覚えている。
「ノア?」
ティナが顔を覗き込んできた。
「……村の水、最近変わったことはなかったか」
「水?」
「井戸の色とか、匂いとか」
「さあ……聞いてないけど」
僕は顔を上げた。
「ダグの家に行く」
「え、でも——」
「症状を、直接確かめたい」
ダグの家の前まで行ったが、扉は閉まっていた。
中から、子どもの泣き声が聞こえた。低く、かすれた泣き声。体力を使い切った子どもが出す、あの声。
扉を叩こうとしたとき、中から開いた。
出てきたのはダグの父、ガルドさんだった。馬具職人で、体の大きな人だ。その人が、ひどく疲れた顔をしていた。
「何の用だ」
「メルの具合が悪いと聞いて。症状を——」
「お前には関係ない」
「聞かせてもらえれば、力になれるかもしれない。薬草のことなら——」
「薬草で、この熱が引くと思うか」
ガルドさんの声が、低く、硬かった。
怒っているのか、疲れているのか、怖いのか——全部が混ざっているような声だった。
「……治癒師は」
「ダグが街へ走った。戻ってくるまで、二日はかかる」
二日。
「それまでに——」
「わかっている」
ガルドさんは扉を閉めた。
静かに、でも、取り付く島もなく。
◇
僕は森へ走った。
ティナのことも、籠のことも、全部置いてきた。
境の樹にたどり着いて、洞から箱を取り出して、表面に手を当てた。光が走るより前に、もう喋っていた。
「ミオ、クドウ、フウタ——誰か、いる?」
「います」
ソラの声が、先に応えた。
「どうしました、ノア。息が切れています」
「村の子どもが、熱で倒れてる。五歳。昨夜からずっと高熱で、腹も壊してる。下がらない」
少し間があった。
「わかりました。今、ミオさんを呼びます」
枠の中が、すぐに明るくなった。
ミオが飛び込んでくるように現れた。後ろに、クドウとフウタの顔も見えた。三人とも、さっきまでと表情が違う。
「ノア、もう一度。症状を、ゆっくり、教えて」
「五歳の女の子。昨夜から高熱。今朝から腹を壊している。嘔吐もあると聞いた。魔法の治療を試みたが、熱が下がらない」
「熱は、どのくらい?」
「正確にはわからない。でも——触れられないほど、高い、と聞いた」
「水は。最近、その子が飲んだ水は?」
「村の井戸水だと思う。コラルのときと——似てる。でも、もっと重い」
ミオが、クドウに向き直って、早口で何かを話した。クドウがすぐに端末の前に移動して、何かを打ち始めた。
「ノア。水のサンプル、取れる? 今すぐ」
「取れる。何をすればいい」
「村の井戸の水を、何かに入れて——転送窓から、送ってほしい」
「わかった。すぐ取りに行く」
「待って」
ミオが言った。
「ノア。それと同時に——水を、今すぐ沸かせる人は、いる?」
「ティナが——」
「ティナさんに、頼んで。メルちゃんが飲む水は、全部、沸かしてほしい。コラルのときと同じに」
「でも、それだけで——」
「まず、できることから。急いで」
◇
「感染性腸炎の可能性が高い」
工藤がモニターを見ながら言った。
「症状の経過から、コラルの件と同じ水源が絡んでいる可能性がある。だが今回は重症化している。五歳、高熱、嘔吐と下痢の併発——脱水が一番怖い」
「経口補水液、伝えましょうか」
美緒が言った。
「塩と砂糖と煮沸した水なら、向こうでも作れるはずです」
「ああ。ただ——」
工藤が、静かに腕を組んだ。
「それで熱が引くとは限らない。コラルは腸炎だったが、今回の熱の高さは——別の要因が重なっている可能性もある」
「つまり、私たちの判断では限界がある」
「そういうことだ」
楓太が、珍しく静かな声で言った。
「俺たち、医者じゃないんですよね」
誰も、すぐには答えなかった。
物理学者。エンジニア。院生。学部生。
診断も、処方も、できない。ノアが必死で伝えてくれた症状を前に、自分たちが持っている知識の輪郭が、はっきりと見えた。
「ソラ」
美緒が言った。
「小児の感染性腸炎、重症例の対処法を調べてくれ。医療介入なしで、できる限界を」
「はい。並行して、水のサンプルが届き次第、センサーで分析します」
「わかった」
美緒はモニターを見た。
枠の向こうでノアが走っている。森の中を、村の方向へ。籠も置いてきたらしく、手に何も持っていない。
あの子は、今、何を感じているのだろう。
五歳の女の子が高熱で倒れていて、大人は誰も耳を貸さなくて、走れる方向が箱しかない——そういうことなのかもしれない。
「急ぎます」
美緒は立ち上がった。
◇
井戸の水を小瓶に汲んで、森へ戻る間に、ティナと合流した。
「ミオから聞いた。メルちゃんの飲む水、全部沸かすんでしょ」
「今すぐできる?」
「できる。でも——ノア、ダグの家に入れてもらえなかったって言ってたじゃない」
「ハンナばあちゃんを通せば、受け入れてくれるかもしれない」
「……ばあちゃんに、話すの?」
「全部は話せない。でも——水を沸かすことの大事さは、伝えられる。ばあちゃんなら、聞いてくれる」
ティナが頷いた。
「わかった。私、ばあちゃんのとこ行ってくる。水を沸かす鍋と、ダグの家への顔つなぎを頼む」
「ありがとう」
「ノアは?」
「サンプルを送って——それから、ミオたちと話す」
森に戻って、小瓶を隙間に入れた。
すぐに引き込まれる感触があった。
「受け取りました。今、センサーにかけます」
ソラが言った。
「ノア。もう一つ聞いていいですか」
「うん」
「メルちゃんが倒れる前、何か変わったことはありませんでしたか。食べたものとか、行った場所とか」
「……わからない。ダグの家の中のことは、知らない」
「村全体で、何か変わったことは」
僕は少し考えた。
「上流の方で、木が何本か倒れたと聞いた。先週。嵐の後で」
「木が倒れた」
「川の上流。井戸水とは関係ないと思ってたけど——」
「ノア」
ソラの声が、少しだけ変わった気がした。
「それ、大事な情報かもしれません。工藤さんに伝えます」
「役に立つ?」
「わかりません。でも、知らないままよりは、いい」
僕は枠の中を見た。
ミオが何かを調べている。クドウが何かを叩いている。フウタが地図のようなものを広げている。全員が、動いている。
でも——何かが、重かった。
いつもの研究室の雰囲気と、違う。
「ミオ」
「うん」
「メルは、助かる?」
ミオが手を止めた。
しばらく、何も言わなかった。
「わからない」
正直な声だった。
「私たちは——研究者だ。医者じゃない。できること、全部やる。でも——約束は、できない」
「うん」
「ノア。今夜は、ソラがいる。何かあれば、すぐ呼んで」
「わかった」
枠の中が、少し遠くなった気がした。
遠いのに——繋がっている。それが今は、ただただ、ありがたかった。
空が、茜色に染まり始めていた。
母さんが倒れたあの夜も、こういう夕暮れだった気がする。
あのときは、何もできなかった。
今は——まだ、わからない。
でも、走れる方向がある。走り続けられる理由がある。
それだけで、三年前と、少し違う。
僕は立ち上がって、村への道を走り始めた。




