第12話 科学者は医者じゃない
その夜、研究室に黒川教授が戻ってきたのは、日付が変わる少し前だった。
美緒と工藤は、まだモニターの前にいた。楓太はソファで仮眠を取っている。ソラは静かに稼働し続けていた。
「水のサンプルの分析結果は」
教授が上着を脱ぎながら言った。
「大腸菌群の反応が出ています。基準値を大きく超えています」
ソラが答えた。
「やはり水源だ」
工藤が腕を組んだ。
「上流で木が倒れたというノアの話——土砂が流入して、井戸に影響が出た可能性がある。コラルの腹下しはその初期症状で、今回のメルは本格的な感染だろう」
「原因はわかった」
教授は椅子を引いて、全員を見た。
「問題は、次だ」
沈黙が、室内に落ちた。
美緒は手元のメモを見た。経口補水液の作り方。体を冷やす方法。水を沸かす指示。できることは全部、すでにソラを通じてノアに伝えてある。
でも——それで、五歳の子どもの高熱が引くかどうか。
「私たちは物理の研究者だ」
工藤が、静かに言った。
「感染症の治療は、専門外だ」
「わかっている」
教授が頷いた。
「だからこそ、決断しなければならない」
「専門家を、呼ぶということですか」
美緒が言った。
「秘密を知る人間が、増える」
「そうだ。リスクはある。だが——」
教授は眼鏡を外して、テーブルに置いた。
「子どもの命がかかっている。私が天秤にかけていいものじゃない」
◇
翌朝、村の空気は重かった。
ダグの家の前を通ると、扉が少し開いていた。中から、メルのうめき声が聞こえた。昨日より、かすれている。
「ダグ」
呼ぶと、しばらくして扉が開いた。
ダグが出てきた。目の下に、くっきりと隈が出ている。一晩、眠っていないのかもしれない。
「様子を、見せてほしい」
「必要ない」
「症状を確認したい。もしかしたら——」
「お前に、何ができる」
ダグの声は、怒っているというより、疲れていた。
「魔法も使えないのに。薬師でもないのに。何が『もしかしたら』だ」
「水のことで、わかったことがある。村の井戸が——」
「父さんが街へ走った。治癒師が来れば、それで済む話だ」
「それまでに——」
「ノア」
ダグが、僕の目を見た。
「頼む。今は、邪魔をしないでくれ」
扉が、閉まった。
僕は、その場を動けなかった。
「邪魔」という言葉が、胸の中で静かに響いた。
怒りじゃない。ダグが怒っているのも、わかる。怖いのだろう。眠れなかったのだろう。そこに「出来損ない」が来て、何かを言おうとしている——邪魔、と感じるのは当然かもしれない。
でも。
視線を上げたら、ダグの家の窓が見えた。
薄いカーテン越しに、小さな人影が横たわっているのが見えた。
メルだ。
小さな体が、時々、震えている。
僕は家の脇に回った。
窓から少し離れた場所に、木箱があった。そこに腰を下ろして、箱を取り出した。
「ソラ」
「はい、ノア。見えています」
「メルが見える場所にいる。窓越しだけど」
「わかりました。観察を続けてください。気づいたことを、全部教えてください」
「……うん」
窓の向こうで、メルがまた体を震わせた。
顔色が、昨日より悪い。唇が、乾いている。布団の中でも、うまく眠れていないのか、時々目を開けては閉じる。
「呼吸が、少し速い気がする」
「回数を数えられますか。胸か腹が動くのを、十秒間で」
数えた。
「十秒で、四回か五回」
「少し多めですね。体力が落ちています。水は飲めていますか?」
「見えない。でも——唇が乾いてる」
「ティナさんに伝えて、沸かした水を届けてもらえますか」
「ハンナばあちゃんが今朝、差し入れを持っていった。沸かした水も、一緒に持っていってくれた」
「よかった」
ソラが、静かに言った。
「ノア。今あなたがやっていることは、大事なことです」
「見ているだけだ」
「見て、伝えることが——今できる、いちばん大切なことです」
◇
「柳瀬先生には、午後に連絡を入れる」
教授が、朝の打ち合わせで言った。
「学生時代の友人で、今は感染症の専門医をやっている。信頼できる人物だ」
「どこまで話しますか」
美緒が聞いた。
「最小限だ。ある遠い地域の症例、という体で相談する。転送装置のことも、異世界のことも、一切話さない」
「それで、十分な助言をもらえますか」
「症状と経過を正確に伝えれば、治療の方針は出てくるはずだ。あとは——私たちが翻訳してノアに届ける」
工藤が口を開いた。
「教授。柳瀬先生は、なぜ遠い地域の症例を黒川研究室が相談してくるのか、疑問に思いませんか」
「思うだろう」
教授は静かに答えた。
「だから、信頼できる人物に頼む必要がある。詳しく聞かない、ということが条件だ」
「それは、先生に失礼じゃないですか」
楓太が、遠慮がちに言った。
「失礼だ。でも——詳しく話すわけにもいかない。そのことは、後で謝る」
教授が、眼鏡をかけ直した。
「秘密というのは、守るためにある。でも、命の前では——どこまで守るべきか、判断しなければならない。それが今日だ」
誰も、反論しなかった。
◇
昼を過ぎたころ、ティナが来た。
「ハンナばあちゃんが、ダグの家に入れてもらえた。メルちゃんに水、飲ませてくれてる」
「よかった」
「でも——熱は下がってない。ばあちゃん、顔が険しかった」
ハンナばあちゃんが険しい顔をするのは、本当に心配なときだ。ばあちゃんはいつも笑っている。笑いながら「大丈夫だよ」と言う。それが言えないくらい、今日の状況は重い。
「ソラが、水を飲ませること以外に、体を冷やすことも伝えてくれた。濡れた布を額に当てるといいって」
「ばあちゃんに伝える。それ、村でもやることだから、受け入れてもらえると思う」
「頼む」
ティナが走っていった。
僕は再び、箱を取り出した。
「ミオ」
「いる。ノア、今日一日、ありがとう」
「何も、できていない」
「そんなことない。あなたの観察が、全部こちらに届いてる」
「研究室の方は——」
「教授が、知り合いのお医者さんに相談することにした。今日の午後」
「医者に? 秘密が——」
「全部は話さない。でも——私たちだけじゃ、限界だ」
ミオの声が、少しだけ、重かった。
「ノア。怒らないで聞いてほしい」
「うん」
「私たちは、物理の研究者だ。体のことは、専門じゃない。できることは全部やる。でも——できないことも、ある」
「わかってる」
「本当に?」
「……わかってる。ミオたちに、全部を求めてるわけじゃない」
ミオが、少し黙った。
それから、静かに言った。
「ごめんね、ノア」
「謝らないで。ミオたちは——ずっと、一緒にいてくれてる。それだけで、十分だ」
◇
教授が柳瀬医師に連絡を取ったのは、夕方のことだった。
「突然すまない。少し聞いてほしいことがあって」
「黒川か。珍しいな、お前から連絡してくるとは」
「遠い地域の、症例の話だ。五歳の子どもが高熱と下痢・嘔吐で三日ほど経過している。治癒——いや、治療が届きにくい環境で、経口補水液と解熱処置は始めている。水源に大腸菌群の汚染が確認された」
電話の向こうで、柳瀬医師が少し間を置いた。
「随分と、詳しいじゃないか。なんで物理屋が、そんな話を」
「事情は言えない。助言をくれるか」
また間があった。
「……症状の経過を、もう少し詳しく」
教授は手元のメモを見た。ソラが一日かけて記録した、ノアの観察記録。呼吸数。唇の乾燥。目の様子。体の震えのタイミング。
一つひとつを、読み上げた。
柳瀬医師は、静かに聞いていた。
そして——言った。
「黒川。それは——水を介する感染症かもしれない。そして、今の状態が続くなら——早急に、抗菌薬が必要だ」
教授は、目を閉じた。
経口補水液では、足りない。
「抗菌薬を、届ける手段があれば——どれを、どのくらい使えばいい」
「……黒川。お前、一体何をしている」
「後で、全部話す。今は頼む」
短い沈黙があった。
「わかった。ただし——後で、本当に全部話してもらうぞ」
研究室に、重い静けさが落ちた。
抗菌薬。完成品の薬。
自分たちが以前ルールとして決めた約束が、頭の中でよみがえった。
「完成品の薬剤をそのまま送るのは危険だ」
自分で、そう言った。工藤が、そう言った。全員で、そう決めた。
でも——今、その約束が、壁になっている。
「教授」
美緒が、静かに言った。
「私たちが決めたルールを——破ることに、なりますか」
教授は、すぐには答えなかった。
窓の外の夜空を、しばらく見ていた。
「破るんじゃない」
ゆっくりと、言った。
「判断する。状況が変わったとき、ルールをどう使うか——それを考えるのが、人間だ」
誰も、何も言わなかった。
ただ、モニターの中で、ソラの通信ランプが、静かに灯り続けていた。




