第81話 ヴェルナーの強行
朝の光が、板戸の隙間から、細く差し込んでいた。
昨夜の恐怖は、まだ、体の芯に残っていた。それでも、誰も、動くことをやめようとはしなかった。
「まずは、この空き家を出る算段からだ」
アルバンが、低い声で言った。
「王都のどこに、まだ安全な場所があるか。ルカ、心当たりは」
「二、三、当たってみる」
ノアは、昨夜からずっと考えていたことを、口にした。
「王都に来てから、いろんな人に、助けられてばかりだった。……次は、僕にできることをやりたい」
「無茶はするなよ」
ルカが、苦笑交じりに言った。
「無茶と、やるべきことの境目は、俺たちが見極める。お前一人で背負う話じゃない」
ルカが立ち上がりかけたそのとき、外から、慌ただしい足音が近づいてきた。誰もが、身構えた。
「――俺だ。ガレンだ」
戸を叩く音に続いて、押し殺した声が聞こえた。アルバンが、慎重に戸を開ける。
◇
「様子が、おかしい」
ガレンは、開口一番、そう言った。息が、少し上がっていた。
「どうして、ここが分かったんですか」
ノアが尋ねると、ガレンは、ばつが悪そうに、鼻を鳴らした。
「昨夜、追っ手が空き家をしらみつぶしに当たったと聞いて、真っ先に潰されなかった場所を、逆算しただけだ。……それより、話を聞け」
「神殿の方角で、地面が揺れた。市場の連中が、空が光ったと騒いでる」
「地震か? それとも、また、教義の何かか」
ルカが眉をひそめると、ガレンは首を振った。
「ただの地震じゃない。俺も見た。……神殿の一番奥、あの塔の辺りが、一瞬、境の樹みたいな色に光ったんだ」
その一言に、ノアの心臓が、大きく跳ねた。
「境の樹みたいな、色……」
「お前が、よく分かってるだろう。あの、白とも金とも言えない、変な光だ」
◇
アルバンの顔から、みるみる血の気が引いていった。
「まさか」
「アルバンさん?」
「……神殿の最奥、聖具の間に、あの水晶が保管されているはずだ」
アルバンの声が、震えていた。
「ノアの鑑定に使った、あの水晶だ。二度の鑑定で、記録にない反応を示した、あれが」
「水晶が、どうしたって言うんですか」
ノアが、思わず声を上げた。
「あの反応は、単なる異常値ではなかったのかもしれない」
アルバンは、額に手を当てた。
「お前の共鳴に反応して、水晶自体に、微かな残り香――余韻のようなものが、宿ったのかもしれない。もし、それを利用して」
「境を、無理やりこじ開けようとしてる、ってことか」
ルカが、低く唸った。
◇
「ヴェルナー様なら、やりかねない」
アルバンの声には、確信があった。
「あの方は、境の番人という力を、教会が独占的に管理すべきだと信じている。ノアが手の届かないところへ逃げた今、……本人がいなくとも、力そのものを引き出せるなら、それでいいと考えたとしても、おかしくない」
「燃やした記録の中身も、あの人は、全部読んでたはずだ」
ガレンが、苦い顔で付け加えた。
「禁じられた手順を、我流で試そうとしてるなら――」
「危険すぎる」
アルバンが、言葉を継いだ。
「本物の共鳴でないものを、力ずくで再現しようとすれば、何が起こるか、誰にも分からない」
◇
そのとき、ノアが肩から下げた箱の枠に、微かな光が灯った。ハンナが、素早く布を外す。
「――こちらでも、異変を検知しました」
ソラの声が、緊張を帯びていた。
「先ほどから、境の樹のセンサーに、ノアさんのものとは異なる、不規則な反応が記録されています。強度が、急激に上昇しています」
「そっちからも、分かるのか」
ノアが、枠に顔を寄せた。
「はい。……この反応が、王都で起きていることと同じものだとすれば」
キョウジュの声が、緊迫した調子で続いた。
「誰かが、無理やり、境を開こうとしている。制御されていない共鳴は、周囲に予測できない負荷をかける。エレナさんのケースとは、逆の意味で、危険な状態だ」
「逆の意味?」
「エレナさんは、共鳴を、力ずくで閉じようとして、自分の内側を蝕んだ。……今起きているのは、恐らく、その逆だ。力ずくで開こうとして、周囲そのものを、蝕み始めてる」
その言葉に、部屋の空気が、凍りついた。
◇
同じ頃、遠く離れたアルダの森でも、異変は起きていた。
境の樹の前で、朝の見回りをしていたダグが、ふと足を止めた。
「……何だ、これ」
樹の枝先が、これまで見たことのない速さで、明滅していた。規則正しかった光の波が、乱れ、跳ね、不安げに揺れている。
「ダグ、どうしたの」
追いついてきたティナが、その光を見て、息を呑んだ。
「王都の方で、何かあったんじゃ……」
二人は、顔を見合わせた。言葉にはしなかったが、同じ不安が、そこにあった。
「あたし、村長のところに知らせに行く」
「俺は、ここで見張ってる。何か分かったら、すぐ伝える」
ダグの声には、いつもの軽さがなかった。境の樹の異常な明滅を見つめながら、彼は、遠い王都にいる友の無事を、ただ祈るしかなかった。
◇
「街の人たちは、大丈夫なんですか」
ノアの声が、震えた。
「今のところ、地面の揺れと、光が見えた程度だ」
キョウジュの声が、抑えた調子で答えた。
「だが、この反応が続けば、いずれ、もっと大きな形で表に出るかもしれない。……急いだ方がいい」
「行くしかない」
ガレンが、短く言った。
「俺が、神殿の裏手まで案内する。警備の目は、俺が何とかする」
「私も行く」
アルバンが、迷いなく答えた。
「これは、教会の中で起きていることだ。……見過ごすわけにはいかない」
◇
ノアは、拳を握りしめた。恐怖は、消えていなかった。むしろ、体の奥から、じわりと這い上がってくる。
だが、それ以上に、はっきりとした思いがあった。
母が辿れなかった道。仲間と共に、正しく共鳴する道。その一歩を踏み出す前に、誰かが、間違った形で、境そのものを壊そうとしている。
このまま、見ていることはできない。
「ばあちゃん」
ノアは、隣に座るハンナを見た。ハンナは、皺の刻まれた顔で、静かに頷いた。
「行くよ。あんたの隣で」
「僕も、行きます」
ルカが、肩を回しながら立ち上がった。
「危ない橋を渡る算段は、任せてくれ。伝手を使う」
枠の向こうから、キョウジュの声が、静かに、しかし力強く響いた。
「こちらも、できる限りの情報を送り続ける。反応の変化があれば、すぐに知らせる」
「頼みます」
ノアは、箱を、しっかりと抱え直した。クドウが作った腕輪が、手首で、微かに冷たい重みを伝えていた。
五人は、顔を見合わせた。それぞれの胸に、恐怖と、それを上回る決意が、同時にあった。
外では、まだ、地響きにも似た揺れが、遠く、断続的に続いていた。
空き家を出て、朝の王都の路地へ、五人は、駆け出した。




