第80話 準備
深夜の研究室に、いつもとは違う緊張が満ちていた。
境の樹越しに届いた報告――謎が解けたこと。ノアの母エレナが辿った道。そして、捜索の足音が隠れ家のすぐ外まで迫った、あの一夜のこと。
黒川は、腕を組んだまま、しばらく動かなかった。
「ノア君は、決めたんだな。母親と同じ力と、正面から向き合うと」
「はい」
美緒が、静かに頷いた。
「怖いって、はっきり言ってました。それでも、やってみたいって」
工藤が、椅子の背にもたれたまま、天井を仰いだ。
「……で、俺たちは、何をすればいい」
その問いに、部屋の空気が、一段引き締まった。
◇
「エレナさんのケースを、もう一度、整理しよう」
黒川が、ホワイトボードに向かい、マーカーを取った。
「彼女は、共鳴を、力ずくで断ち切ろうとした。堰き止められた流れが、少しずつ、体そのものを蝕んでいった」
「無理な抑制が、駄目だったんですよね」
美緒が言うと、黒川は頷いた。
「だとすれば、ノア君に必要なのは、抑え込むことじゃない。……負荷を、分散させる方法だ」
「分散、か」
工藤が、腕を組んで唸った。
「一気に全部背負わせず、小分けにするってことですよね。……電気で言えば、ブレーカー落とさないように、少しずつ流す感じ」
「悪くない例えだ」
黒川が、小さく笑った。
◇
柳瀬が、古い外付けドライブを持ち出してきた。
「二十五年分の、あの信号のデータが、まだ残ってる。強度の変化、間隔、持続時間……エレナさんが、どんなときに強く共鳴し、どんなときに落ち着いていたか。パターンが、見えるかもしれない」
「見えたら、どうするんです」
「同じ波を、繰り返させない」
柳瀬の声は、静かだったが、揺るぎなかった。
「あの子には、俺たちがついてる。二十五年前、俺たちは、信号の主が誰かも知らずに、ただ追いかけてただけだった。今度は、違う」
その言葉に、誰も、すぐには答えなかった。悔いと、決意が、同じ重さで、部屋に沈んでいた。
「……正直に言えば」
柳瀬が、ドライブを見つめたまま、続けた。
「あの頃、もう少し本気で、信号の発生源を突き止めようとしていたら、と何度も考えた。エレナさんが、まだ生きているうちに、間に合ったかもしれない、と」
「それは、俺も同じだ」
黒川が、静かに言った。
「だが、悔いてる時間があるなら、今できることをやる。それしかない」
柳瀬は、しばらく黙っていたが、やがて小さく頷いた。
「ああ。今度こそ、間に合わせる」
◇
「データ、出ました」
ソラの声が、静かに響いた。モニターに、波形のグラフが並ぶ。
「エレナさんの信号は、短い高まりと、長い凪を、繰り返しています。恐らく、樹に近づいた時間が短いときは負荷が軽く、長時間・高強度で共鳴し続けたときに、体調を崩す傾向が見られます」
「つまり」
美緒が、身を乗り出した。
「短く、区切って、休みを挟みながらやれば、負荷を抑えられるかもしれないってこと?」
「可能性はあります。ただし、あくまで過去のログからの推測です。ノアさんの場合に、そのまま当てはまるとは限りません」
ソラが、慎重に付け加えた。
「だからこそ、リアルタイムで見張る人間が要る」
工藤が、キーボードを叩きながら言った。
「境の樹の反応強度、間隔、……あと、ノアの様子。声の震え、息遣い。全部、こっちで拾えるだけ拾って、危なくなったら、すぐ声をかける」
◇
「モニタリング体制は、私が中心になって整えます」
ソラが言った。
「境の樹側のセンサー出力を常時監視し、閾値を超えた場合は、即座に全員へ警報を出します。加えて、ノアさんの呼吸・心拍を推定できるよう、音声の解析パラメータも調整しておきます」
「頼んだ」
黒川が、短く答えた。それから、少し表情を曇らせた。
「……こんなことを言うのは、今さらだが」
「教授?」
「これは、本来、実験のためにやることだ。誰かの体に負荷をかけて、データを取って、安全を確認する。……本当なら、あってはならないことだと、私は思ってる」
部屋が、静まり返った。
「だが、ノア君は、もう決めてしまった。なら、俺たちにできるのは、その決意を、できる限り安全な形に変えてやることだけだ」
黒川の声に、迷いと、覚悟が、同居していた。
◇
楓太が、それまで黙って画面を見つめていたが、ふと口を開いた。
「なあ」
「何?」
美緒が振り向くと、楓太は、少し照れくさそうに頭をかいた。
「ソラに名前つけたの、俺だろ。あのとき、ただの機械に名前つけるなんて、って自分でも思ってた。でも、今なら分かる。……名前をつけるって、独りにしないってことだったんだな」
「楓太……」
「だから、今度は、ノアの番だ。俺たちが、あいつを独りにしない番」
その言葉に、部屋の空気が、少しだけ和らいだ。
「なあ、俺たちが送れるもの、他にないかな」
「送れるもの?」
「データとか手順だけじゃなくて。……ノアの手元に、何か、握れるものがあったらって思って」
工藤が、少し考えてから、道具箱を漁り始めた。
「……温度で色が変わる石なら、余ってたはずだ。体温が上がりすぎたら色が変わる。単純だが、電気も要らない」
「腕輪にできますか」
美緒が尋ねると、工藤は、頷いた。
「革紐に通せばいい。……危なくなったら色が変わる。それだけでも、遠くにいる俺たちより先に、ノア自身が気づける」
その夜のうちに、工藤は、簡素な腕輪を作り上げた。飾り気のない、ただの石と革紐。だが、そこに込められた時間だけは、誰の目にも明らかだった。
◇
「プロトコル、まとめました」
美緒が、紙に書き出した手順を、皆に見せた。
「短い時間だけ共鳴して、いったん離れる。ソラが反応を見て、大丈夫なら少しずつ時間を延ばす。危なくなったら、即座に中断。……エレナさんができなかった『無理をしない共鳴』を、段階的に積み上げていく感じです」
「悪くない」
黒川が、頷いた。
「あとは、ノア君たちに伝えて、向こうの状況と、擦り合わせるだけだ」
その夜遅く、境の樹越しの枠に、光が灯った。ノアの声が、少し疲れた様子で応えた。
黒川が、静かに、まとめ上げたプロトコルを、一つずつ伝えていった。短い共鳴と長い休止。危険信号が出たら、迷わず離れること。工藤が作った腕輪は、次に転送窓が開いたときに、こちらへ渡す約束をした。
「怖いのは、変わらないけど」
ノアの声が、枠の向こうで、小さく笑った気配があった。
「一人で抱え込まなくていいって、また、思い出せた気がする」
その一言に、モニターを囲む研究室の面々の顔に、確かな安堵が広がった。
エレナが持てなかったもの――正しい知識と、支えてくれる仲間。それを、今、ノアは、確かに手にしていた。
◇
通信を終え、誰もが少し肩の力を抜いたそのとき、ソラの声が、わずかに硬さを帯びた。
「一つ、気になる点があります」
「何だ」
工藤が、すぐに画面を覗き込んだ。
「境の樹の反応ログの中に、ノアさんの共鳴パターンとは異なる、小さな揺らぎが混じっています。頻度も波形も、これまで記録した誰のものとも一致しません」
「別の誰かが、共鳴してるってことか?」
黒川の声が、鋭くなった。
「断定はできません。ノイズの可能性もあります。……ただ、念のため、注視を続けます」
その一言に、部屋の空気が、再び張り詰めた。備えは整いつつある。だが、まだ見えていない何かが、確かに動き始めていた。
まだ、危険が消えたわけではない。それでも、できる限りの備えは、着実に積み上がっていた。
窓の外が、白み始めていた。誰も、眠ろうとはしなかった。




