第79話 決意
夕暮れが、夜へと変わっていく。狭い部屋の中、誰も、しばらく口を開かなかった。
謎は解けた。だが、解けたことで、新しい重さが、ノアの肩にのしかかっていた。
母と同じ力を、自分も持っている。母は、それを恐れ、独りで抱え込み、命を削った。自分は、どうすればいいのか。
このまま、力に触れずに生きていくことも、できるかもしれない。境の樹に近づかず、共鳴を避け続ければ、母と同じ末路を辿らずに済むかもしれない。だが、それは、母が選んだやり方と、何が違うのだろう。恐れて、遠ざけて、それで本当に、守れるものなのだろうか。
考えれば考えるほど、答えは、簡単には出なかった。それでも、何かを決めなければならない。そんな重い沈黙が、部屋に満ちていた。
◇
「僕は」
長い沈黙の後、ノアが、震える声で切り出した。
「怖いです。母さんみたいに、なるんじゃないかって」
誰も、すぐには答えなかった。ノアは、膝の上の拳を、強く握りしめた。
「でも、母さんは、独りだった。相談できる人が、いなかった。……僕には、いる。それでも、怖いものは、怖いです」
その正直な告白に、部屋の空気が、静かに揺れた。
◇
「怖くて、当然だ」
キョウジュの声が、枠の向こうから答えた。
「怖くないなら、それはそれで、おかしい。……お前の母さんが背負ったものの重さを、お前はもう、知ってしまったんだから」
「じゃあ、僕は……」
「怖いままでいい。ただ、怖いから何もしない、というのとは、別の話だ」
キョウジュの声が、静かに続いた。
「怖くても、進むことはできる。一人でやろうとするから、潰れるんだ。俺たちは、そのために、こうして繋がってる」
◇
ハンナが、ゆっくりと、口を開いた。その声には、これまでにない、深い葛藤が滲んでいた。
「あたしは、正直、あんたを、どこか誰も知らない場所に隠して、一生、この力のことなんて忘れさせてやりたいって、何度も思った」
その告白に、ノアは、驚いて顔を上げた。
「ばあちゃん……」
「でもね」
ハンナは、皺の刻まれた手で、そっと、ノアの手を包んだ。
「それは、エレナと同じ間違いを、あたしが繰り返すだけなんだと、今なら分かる。あの子を、危ないものから遠ざけようとして、結局、独りにしちまった。……あんたを守るってのは、隠すことじゃない。隣にい続けることなんだと、今は思うよ」
その言葉に、ノアの目から、また涙がこぼれた。
「ばあちゃんが、隣にいてくれるなら」
ノアは、震える声で、続けた。
「僕、やってみたい。母さんが、できなかったこと。独りじゃないやり方で、ちゃんと、この力と向き合ってみたい」
◇
「その言葉、待っていた」
アルバンが、静かに、しかしはっきりと言った。
「私は、教会の人間として、境の番人という存在が、正しく扱われる前例を、まだ一つも知らない。……お前が、その最初の一人になるというなら、私は、全力で支える」
「僕からも、一つ」
ルカが、腕を組んで言った。
「逃げる算段だけじゃなく、これからのことも、俺なりに考えておく。王都の裏道にも、頼れる伝手にも、まだまだ余地がある」
「伝手、って」
ノアが尋ねると、ルカは、少し得意げに、口の端を上げた。
「ミレナさんだけじゃない。俺が学舎にいた頃の知り合いは、今もあちこちに散らばってる。中には、神殿の中枢に近い場所で働いてる奴もいる。……全部が全部、味方になるとは限らないが、探る価値はある」
「危なくないですか」
「危なくない話なんて、もう、とっくにどこにもないだろう」
ルカは、そう言って、肩をすくめた。だが、その目の奥には、軽口では隠しきれない、確かな緊張も浮かんでいた。危険を承知の上で、それでも動こうとする覚悟が、そこにあった。
その一言一言に、ノアの胸の奥が、じんわりと温かくなっていった。独りではない、という言葉が、今はもう、単なる慰めではなく、確かな実感として、胸に根を張っていた。
◇
「こちらでも、できることを、すぐに考える」
キョウジュの声が、力強く響いた。
「エレナさんのケースを踏まえれば、無理な抑制ではなく、負荷を分散させる方法があるはずだ。安全に共鳴する手段を、必ず見つける」
「私も、監視体制を整えます」
ソラの声が、静かに続いた。
「異変があれば、即座に気づけるように」
「時間は、かかると思う」
クドウが、正直に言った。
「だが、絶対に、投げ出さない。約束する」
その言葉に、ノアは、深く頷いた。
◇
その時だった。
外から、複数の足音と、扉を叩く音が、遠くから響いてきた。
「――こちらにも、確認を。神殿から、指示が出ている一行を、捜索中だ」
くぐもった声が、隣の建物の方から聞こえてくる。
全員の顔から、一斉に血の気が引いた。
「……近い」
ルカが、囁くように言った。
アルバンが、素早く、灯りを消した。真っ暗な部屋の中、誰もが、息を潜めた。
◇
足音が、少しずつ、近づいてくる。
ノアの心臓が、痛いほど、耳の奥で鳴っていた。恐怖で、体が震え出しそうになるのを、必死に抑え込む。喉の奥に、酸っぱい味が込み上げた。逃げ出したい。だが、動けば、音を立ててしまう。動かないことこそが、今、唯一できることだった。ハンナの手が、闇の中で、ノアの手を、強く握った。その温もりだけが、今のノアを、かろうじて繋ぎ止めていた。
「この空き家も、一応、見ておくか」
扉のすぐ外で、声がした。ノアの息が、止まりそうになる。板戸の隙間から漏れる灯りに、人影が、一瞬、揺れた。
長い、長い沈黙。時間の流れ方が、おかしくなったように感じられた。数秒のはずが、何十秒にも、何分にも思えた。
「……いや、随分埃を被ってる。誰も、使ってなさそうだ」
「そうか。次へ行くぞ」
足音が、遠ざかっていった。誰も、しばらく、動けなかった。
やがて、完全に足音が聞こえなくなってから、ようやく、部屋に、詰めていた息が、一斉に漏れた。
◇
「……危なかったな」
ルカが、掠れた声で言った。額に、汗が浮かんでいた。
「みんな、大丈夫?」
ノアが尋ねると、ハンナが、震えを抑えながら、頷いた。
「大丈夫だよ。あんたの手を、握ってた」
その一言に、ノアは、ようやく、詰めていた涙を、静かにこぼした。恐怖と、それでも確かにある結束と。両方が、胸の中で混ざり合っていた。
「アルバンさん」
ノアが、暗がりの中で、声をかけた。
「怖かったですか」
「ああ、怖かった」
アルバンは、正直に答えた。
「だが、逃げたいとは、一度も思わなかった。……それだけは、はっきりと言える」
◇
夜が更けていく中、五人と、枠の向こうの仲間たちは、静かに、これからのことを話し合い始めた。
追われる恐怖は、まだ消えていない。母のように潰れてしまうかもしれない不安も、消えていない。
それでも、ノアの中には、確かな決意が根を下ろしていた。
独りでは、なかった。
怖いままでいい。逃げてもいい。それでも、前へ進むことは、できる。
窓の外、王都の夜空に、星が一つ、また一つと、瞬き始めていた。母が見たであろう、同じ夜空を見上げながら、ノアは、静かに、拳を握りしめた。
明日から、動き出す。母が辿れなかった道を、仲間と共に、探すために。




