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異世界少年と謎の物体と研究室の仲間たち〜森で拾った箱の向こうは現代日本でした〜  作者: gachapin2223


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第77話 境の樹、再び

窓のない部屋に、朝の気配だけが忍び込んでいた。板壁の隙間から差し込む、鈍い灰色の光。ノアは、一晩中、まともに眠れなかった。


目を閉じるたびに、あの瞬間が蘇る。荷袋の紐が切れ、暗がりに落ちていく箱。拾い上げる代わりに、ハンナの腕を掴んだ、自分の手。


後悔はない。何度考え直しても、同じ選択をする。それでも、胸の奥に空いた穴のような感覚は、消えてくれなかった。


キョウジュは、無事だろうか。ミオは、ソラは。心配しているだろうか。それとも――こちらから途絶えた沈黙を、見捨てられたと、勘違いしていないだろうか。


考えれば考えるほど、息が詰まった。隣で眠るハンナの寝息だけが、この部屋に流れる時間を、かろうじて繋ぎ止めているようだった。


◇


夜が明けきる前に、ガレンが戻ってきた。手には、パンと干し肉の包み。


「腹が減ってちゃ、頭も回らん」


ぶっきらぼうにそう言って、包みを床に置いた。だが、その顔には、隠しきれない疲労と緊張があった。


「ガレンさん、これから、どうするんですか」


ノアが尋ねると、ガレンは、しばらく黙り込んだ。


「俺は、一度、メルヴィン様の元へ戻る。……ここにいつまでも顔を出してちゃ、逆に怪しまれる」


「一人にして、いいんですか」


「一人じゃないだろう。アルバンも、ルカもいる」


ガレンは、そう言うと、扉に手をかけた。だが、一瞬、足を止めた。


「……無事でいろよ」


それだけ言って、振り返らずに出ていった。その背中を見送りながら、ノアの胸に、奇妙な感情が込み上げた。かつて、あれほど恐れていた相手が、今は、確かな味方の一人になっている。人と人との距離は、こんなふうに変わるものなのだと、初めて実感した。


◇


「箱を、探しに行くべきだと思う」


ガレンが去った後、ルカが、静かにそう切り出した。


「危険すぎる」


即座に、アルバンが反対した。


「昨夜の今日だ。あの辺りは、まだ見張りが立っているかもしれない。捕まれば、すべてが水の泡になる」


アルバンの声には、抑えきれない恐れが滲んでいた。無理もない、とノアは思った。アルバンは、教会という組織の中で生きてきた人だ。裏切りの代償がどれほどのものか、誰よりもよく知っている。家族に累が及ぶかもしれないと、自分でそう口にしていた。


「分かってる。だから、俺一人で行く」


ルカが、静かに答えた。


「旅商人ってのは、こういうとき便利でね。荷を探して路地を彷徨いてても、誰も不思議に思わない」


「でも――」


ノアが言いかけると、ルカは、片目を軽く閉じてみせた。


「心配すんな。俺は、こう見えて、危ない橋を渡るのには慣れてる」


その軽さの奥に、確かな覚悟があるのを、ノアは感じ取った。誰もが、それぞれの恐れを抱えながら、それでも動こうとしている。


◇


ハンナは、何も言わずに、ルカの荷袋に、干し薬草をいくつか押し込んだ。


「これを持っていきな。何かあったときの、気付け薬だ」


「ハンナさんも、変わらないな」


ルカが、小さく笑った。ハンナの手が、微かに震えているのを、ノアは見逃さなかった。誰も彼も、恐怖を抱えながら、それを表に出さないようにしているだけなのだと、改めて分かった。


「頼んだよ」


ハンナの声に、いつもの強さの奥に潜む、剥き出しの不安が滲んでいた。


ルカは、頷き、外套の襟を立てて、静かに扉を出ていった。


◇


同じ頃、遠く離れた研究室では、誰も眠っていなかった。


「連絡が、途絶えて、もう半日だ」


工藤の声は、掠れていた。画面には、変化のないグラフが映し出されている。


「境の樹側のセンサーには、まだ反応がある。……むしろ、これまでにないほど強い」


黒川が、画面を睨みながら言った。


「ノア君の側で、何かが起きている。それだけは、間違いない」


美緒が、震える声で言った。


「でも、繋がらない。呼びかけても、応答がない」


楓太が、椅子に座ったまま、両手で顔を覆った。


「箱、壊れたのか? それとも、あいつ自身に、何か――」


「憶測はよせ」


黒川の声が、珍しく鋭くなった。だが、その手も、微かに震えていた。


◇


「私に、一つ、提案があります」


沈黙を破ったのは、ソラだった。


「境の樹の光の反応が、これまでになく強いということは、ノアさんの側で強い感情の動きがあるということです。以前確認した、距離と反応の強さに関する法則性から見ても、これは偶然ではありません」


「つまり?」


「箱そのものが機能を失っていない可能性があります。ただ、何らかの理由で、ノアさんの手元から離れている。もし箱が生きているなら、こちらから、転送窓に信号を送り続けることで、箱自体を光らせることができるかもしれません」


工藤の目に、光が戻った。


「灯台みたいに、ってことか」


「はい。誰かが、それに気づいてくれることを願うしかありませんが」


「やるしかない」


黒川が、即座に頷いた。


「工藤くん、頼めるか」


「もちろんです」


工藤は、震える指でキーを叩き始めた。徹夜で赤くなった目の奥に、諦めない光が灯っていた。


◇


王都の路地は、朝の喧騒に紛れて、意外なほど静かだった。ルカは、フードを目深に被り、昨夜の逃走経路を、記憶を頼りに逆にたどっていく。


心臓が、痛いほど鳴っていた。角を曲がるたびに、見張りの姿がないか、目だけを動かして確認する。恐怖がないと言えば、嘘になる。だが、それ以上に、ノアの震える声が、頭から離れなかった。


――ソラたちと、繋がれなくなった。


あの独りきりの声を、もう一度聞きたくはなかった。


「……ここ、だったか」


記憶にある路地の角。石畳の隅、排水路の脇に、何かが引っかかっているのが見えた。


近づいて、息を呑んだ。


革の荷袋。埃と泥にまみれながらも、その隙間から、微かな光が、点滅するように漏れていた。


◇


「――あった」


ルカは、震える手で、荷袋を拾い上げた。中の布に包まれた箱が、確かに、規則正しく明滅していた。まるで、必死に呼びかけているかのように。


周囲を見回し、人目がないことを確かめると、ルカは、荷袋を懐に抱え込み、来た道を、急いで引き返した。


隠れ家の扉を叩く手は、行きよりも、ずっと軽かった。


◇


「――ルカさん!」


戸が開いた瞬間、ノアは、思わず声を上げた。ルカの腕の中の荷袋を見て、息が止まりそうになった。


「ほら。灯台みたいに、光ってたぞ」


ルカが、疲れた笑みを浮かべながら、荷袋を差し出した。


ノアは、震える手で布を解いた。箱は、確かに、そこにあった。傷一つなく、変わらない重みで。


「クドウさん……!」


震える声で、箱に触れる。


「――ノア、無事か?! 聞こえるか?!」


クドウの声が、掠れながらも、確かに響いた。その声を聞いた瞬間、ノアの目から、堰を切ったように涙が溢れた。


「ごめん……! ごめんなさい、僕、箱を、落として……!」


「謝るな! 生きてるなら、それでいい! それだけで、十分だ!」


クドウの声も、明らかに震えていた。


枠の向こうから、ミオの泣き声、ソラの静かな声、キョウジュの安堵の息遣いが、次々と伝わってきた。


「みんな、心配、かけて」


「当たり前だろう」


キョウジュの声が、いつになく優しかった。


「お前が繋がらなくなって、こっちがどれだけ――いや、それはもう、いい。無事なら、それでいい」


部屋の中で、それを見守っていたハンナ、アルバン、ルカの表情にも、確かな安堵が広がっていた。


◇


「すまない、ノア君。詳しい事情は、後で聞かせてくれ」


キョウジュの声が、少し落ち着きを取り戻して言った。


「今は、伝えたいことがある。……ノア君の側で起きたことを、全部、聞かせてほしい。こちらでも、分かったことがたくさんある」


ノアは、頷いた。喉の奥が、まだ熱かった。


「うん。……全部、話す。今度こそ、一人で抱え込んだりしない」


その言葉に、部屋にいた誰もが、静かに頷いた。


孤立という名の重石が一つ、確かに、取り除かれた夜だった。だが、追跡の危険は、まだ去っていない。窓の外では、王都の朝が、何も知らないまま、静かに更けていく。


答えを出すべき時が、すぐそこまで迫っていた。


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