第77話 境の樹、再び
窓のない部屋に、朝の気配だけが忍び込んでいた。板壁の隙間から差し込む、鈍い灰色の光。ノアは、一晩中、まともに眠れなかった。
目を閉じるたびに、あの瞬間が蘇る。荷袋の紐が切れ、暗がりに落ちていく箱。拾い上げる代わりに、ハンナの腕を掴んだ、自分の手。
後悔はない。何度考え直しても、同じ選択をする。それでも、胸の奥に空いた穴のような感覚は、消えてくれなかった。
キョウジュは、無事だろうか。ミオは、ソラは。心配しているだろうか。それとも――こちらから途絶えた沈黙を、見捨てられたと、勘違いしていないだろうか。
考えれば考えるほど、息が詰まった。隣で眠るハンナの寝息だけが、この部屋に流れる時間を、かろうじて繋ぎ止めているようだった。
◇
夜が明けきる前に、ガレンが戻ってきた。手には、パンと干し肉の包み。
「腹が減ってちゃ、頭も回らん」
ぶっきらぼうにそう言って、包みを床に置いた。だが、その顔には、隠しきれない疲労と緊張があった。
「ガレンさん、これから、どうするんですか」
ノアが尋ねると、ガレンは、しばらく黙り込んだ。
「俺は、一度、メルヴィン様の元へ戻る。……ここにいつまでも顔を出してちゃ、逆に怪しまれる」
「一人にして、いいんですか」
「一人じゃないだろう。アルバンも、ルカもいる」
ガレンは、そう言うと、扉に手をかけた。だが、一瞬、足を止めた。
「……無事でいろよ」
それだけ言って、振り返らずに出ていった。その背中を見送りながら、ノアの胸に、奇妙な感情が込み上げた。かつて、あれほど恐れていた相手が、今は、確かな味方の一人になっている。人と人との距離は、こんなふうに変わるものなのだと、初めて実感した。
◇
「箱を、探しに行くべきだと思う」
ガレンが去った後、ルカが、静かにそう切り出した。
「危険すぎる」
即座に、アルバンが反対した。
「昨夜の今日だ。あの辺りは、まだ見張りが立っているかもしれない。捕まれば、すべてが水の泡になる」
アルバンの声には、抑えきれない恐れが滲んでいた。無理もない、とノアは思った。アルバンは、教会という組織の中で生きてきた人だ。裏切りの代償がどれほどのものか、誰よりもよく知っている。家族に累が及ぶかもしれないと、自分でそう口にしていた。
「分かってる。だから、俺一人で行く」
ルカが、静かに答えた。
「旅商人ってのは、こういうとき便利でね。荷を探して路地を彷徨いてても、誰も不思議に思わない」
「でも――」
ノアが言いかけると、ルカは、片目を軽く閉じてみせた。
「心配すんな。俺は、こう見えて、危ない橋を渡るのには慣れてる」
その軽さの奥に、確かな覚悟があるのを、ノアは感じ取った。誰もが、それぞれの恐れを抱えながら、それでも動こうとしている。
◇
ハンナは、何も言わずに、ルカの荷袋に、干し薬草をいくつか押し込んだ。
「これを持っていきな。何かあったときの、気付け薬だ」
「ハンナさんも、変わらないな」
ルカが、小さく笑った。ハンナの手が、微かに震えているのを、ノアは見逃さなかった。誰も彼も、恐怖を抱えながら、それを表に出さないようにしているだけなのだと、改めて分かった。
「頼んだよ」
ハンナの声に、いつもの強さの奥に潜む、剥き出しの不安が滲んでいた。
ルカは、頷き、外套の襟を立てて、静かに扉を出ていった。
◇
同じ頃、遠く離れた研究室では、誰も眠っていなかった。
「連絡が、途絶えて、もう半日だ」
工藤の声は、掠れていた。画面には、変化のないグラフが映し出されている。
「境の樹側のセンサーには、まだ反応がある。……むしろ、これまでにないほど強い」
黒川が、画面を睨みながら言った。
「ノア君の側で、何かが起きている。それだけは、間違いない」
美緒が、震える声で言った。
「でも、繋がらない。呼びかけても、応答がない」
楓太が、椅子に座ったまま、両手で顔を覆った。
「箱、壊れたのか? それとも、あいつ自身に、何か――」
「憶測はよせ」
黒川の声が、珍しく鋭くなった。だが、その手も、微かに震えていた。
◇
「私に、一つ、提案があります」
沈黙を破ったのは、ソラだった。
「境の樹の光の反応が、これまでになく強いということは、ノアさんの側で強い感情の動きがあるということです。以前確認した、距離と反応の強さに関する法則性から見ても、これは偶然ではありません」
「つまり?」
「箱そのものが機能を失っていない可能性があります。ただ、何らかの理由で、ノアさんの手元から離れている。もし箱が生きているなら、こちらから、転送窓に信号を送り続けることで、箱自体を光らせることができるかもしれません」
工藤の目に、光が戻った。
「灯台みたいに、ってことか」
「はい。誰かが、それに気づいてくれることを願うしかありませんが」
「やるしかない」
黒川が、即座に頷いた。
「工藤くん、頼めるか」
「もちろんです」
工藤は、震える指でキーを叩き始めた。徹夜で赤くなった目の奥に、諦めない光が灯っていた。
◇
王都の路地は、朝の喧騒に紛れて、意外なほど静かだった。ルカは、フードを目深に被り、昨夜の逃走経路を、記憶を頼りに逆にたどっていく。
心臓が、痛いほど鳴っていた。角を曲がるたびに、見張りの姿がないか、目だけを動かして確認する。恐怖がないと言えば、嘘になる。だが、それ以上に、ノアの震える声が、頭から離れなかった。
――ソラたちと、繋がれなくなった。
あの独りきりの声を、もう一度聞きたくはなかった。
「……ここ、だったか」
記憶にある路地の角。石畳の隅、排水路の脇に、何かが引っかかっているのが見えた。
近づいて、息を呑んだ。
革の荷袋。埃と泥にまみれながらも、その隙間から、微かな光が、点滅するように漏れていた。
◇
「――あった」
ルカは、震える手で、荷袋を拾い上げた。中の布に包まれた箱が、確かに、規則正しく明滅していた。まるで、必死に呼びかけているかのように。
周囲を見回し、人目がないことを確かめると、ルカは、荷袋を懐に抱え込み、来た道を、急いで引き返した。
隠れ家の扉を叩く手は、行きよりも、ずっと軽かった。
◇
「――ルカさん!」
戸が開いた瞬間、ノアは、思わず声を上げた。ルカの腕の中の荷袋を見て、息が止まりそうになった。
「ほら。灯台みたいに、光ってたぞ」
ルカが、疲れた笑みを浮かべながら、荷袋を差し出した。
ノアは、震える手で布を解いた。箱は、確かに、そこにあった。傷一つなく、変わらない重みで。
「クドウさん……!」
震える声で、箱に触れる。
「――ノア、無事か?! 聞こえるか?!」
クドウの声が、掠れながらも、確かに響いた。その声を聞いた瞬間、ノアの目から、堰を切ったように涙が溢れた。
「ごめん……! ごめんなさい、僕、箱を、落として……!」
「謝るな! 生きてるなら、それでいい! それだけで、十分だ!」
クドウの声も、明らかに震えていた。
枠の向こうから、ミオの泣き声、ソラの静かな声、キョウジュの安堵の息遣いが、次々と伝わってきた。
「みんな、心配、かけて」
「当たり前だろう」
キョウジュの声が、いつになく優しかった。
「お前が繋がらなくなって、こっちがどれだけ――いや、それはもう、いい。無事なら、それでいい」
部屋の中で、それを見守っていたハンナ、アルバン、ルカの表情にも、確かな安堵が広がっていた。
◇
「すまない、ノア君。詳しい事情は、後で聞かせてくれ」
キョウジュの声が、少し落ち着きを取り戻して言った。
「今は、伝えたいことがある。……ノア君の側で起きたことを、全部、聞かせてほしい。こちらでも、分かったことがたくさんある」
ノアは、頷いた。喉の奥が、まだ熱かった。
「うん。……全部、話す。今度こそ、一人で抱え込んだりしない」
その言葉に、部屋にいた誰もが、静かに頷いた。
孤立という名の重石が一つ、確かに、取り除かれた夜だった。だが、追跡の危険は、まだ去っていない。窓の外では、王都の朝が、何も知らないまま、静かに更けていく。
答えを出すべき時が、すぐそこまで迫っていた。




