第76話 追われる夜
夜半、宿の扉を、控えめに叩く音がした。
「アルバンだ。……開けてくれ。ルカも一緒だ」
囁くような声に、只事ではない気配を感じ取り、ハンナが、すぐに扉を開けた。アルバンの顔は、蒼白だった。その後ろで、ルカが、油断のない目で、通りの左右を窺っていた。
「動いた。今夜、神殿の東棟に、お前を『保護』するための部屋が、急遽用意された。……表向きは、安全のため、という名目だ」
「保護、って」
「口実だ。一度そこに入れば、二度と、自由には出てこられない」
アルバンの声が、切迫していた。
「今すぐ、発たなければならない」
◇
荷物をまとめる時間は、ほとんどなかった。ノアは、荷袋を掴み、布に包んだ箱の重みを、手のひらで確かめた。ハンナが、手早く、必要な物だけを詰めていく。長年、いつ何が起きても動けるようにと、体に染み込ませてきた手つきだった。
「裏門から出る。守衛の交代の隙を突く。……時間がない」
アルバンを先頭に、四人は、宿の裏口から、夜の闇へ滑り出た。
石畳の道は、月明かりだけが頼りだった。遠くで、複数の足音。松明の灯りが、通りの向こうに揺れていた。
「こっちだ」
ルカが、路地の奥へ、皆を導いた。息を殺し、壁に張り付くようにして、灯りをやり過ごす。
心臓の音が、耳の奥で、痛いほど響いていた。
◇
「止まれ! そこの一行!」
不意に、背後から声が飛んだ。振り返らずに、ノアたちは、走った。石畳を蹴る足音が、四人分、乱れて重なる。
「橋の方へ!」
アルバンの声に従い、路地を折れる。角を曲がるたび、松明の灯りが、壁に不気味な影を伸ばした。息が上がり、肺の奥が、焼けるように痛んだ。それでも、足を止めることは、許されなかった。
だが、その先に、松明を掲げた人影が、複数。
「――挟まれた」
ルカの声が、初めて、緊張を帯びた。
進むも、戻るも、道がない。ノアの手が、汗で、荷袋の紐を強く握りしめた。喉の奥が、からからに乾いていた。頭上で、夜鳥が一羽、羽音を立てて飛び去っていく。それすらも、心臓を跳ねさせるほどの音に感じられた。
◇
「こっちに、隠れ路がある」
アルバンが、壁際の、蔦に覆われた小さな鉄格子を指した。だが、そこへ向かう一瞬、背後から伸びた手が、ノアの腕を掴んだ。
「――!」
「ノア!」
ハンナの叫び声。振り向いた瞬間、松明の男の手が、ノアの荷袋の紐を、力任せに引いた。紐が切れ、荷袋が、地面に落ちる。
とっさに、ノアは、二つのものの間で、選ばなければならなかった。荷袋――箱の入った、あちらの世界との、唯一の繋がり。そして、荷袋を庇おうとして体勢を崩した、ハンナの腕。
考える暇は、なかった。ノアは、ハンナの腕を、強く掴んで引いた。
「箱より、ばあちゃんが先だ!」
その一瞬で、荷袋は、暗がりの中に、置き去りになった。
◇
「早く、こっちだ!」
不意に、路地の脇の、古い扉が、内側から開いた。低い声。松明の灯りに、一瞬だけ浮かんだ顔――ガレンだった。
躊躇う間もなく、四人は、その扉の中へ転がり込んだ。ガレンが、すぐに扉を閉め、閂をかける。外を、足音が通り過ぎていった。息を潜め、誰も、動かなかった。
やがて、足音が遠ざかると、ガレンが、大きく息を吐いた。
「……危なかったな」
「どうして、ここに」
ハンナの問いに、ガレンは、苦い顔をした。
「アルバンから、話は聞いてた。念のため、この裏道を、押さえておいた。……役に立って、良かったよ」
「アルバンさんが、頼んだんですか」
ノアが尋ねると、アルバンは、小さく頷いた。
「万が一のために、な。……ガレン、恩に着る」
「恩なんて、大層なもんじゃない」
ガレンは、ぶっきらぼうに言って、目を逸らした。
「メルヴィン様の顔を潰すわけには、いかないからな。……それだけだ」
その口調とは裏腹に、目には、確かな安堵の色があった。
◇
「ここは、街外れの空き家だ。しばらくは、身を隠せる」
ガレンが、埃をかぶった部屋を見回しながら言った。狭く、粗末な場所だったが、今のノアたちには、何よりの避難所だった。
崩れるように座り込み、ノアは、ようやく、詰めていた息を吐いた。全身から、汗と一緒に、力が抜けていく。
「みんな、無事……」
そう呟いて、荷袋に手を伸ばそうとした瞬間、指先が、何も掴まないことに気づいた。
「――ない」
「どうした」
「箱……荷袋、置いてきた」
その言葉に、部屋の空気が、一瞬、止まった。ノアの脳裏に、路地での一瞬が、鮮明に蘇る。荷袋の紐が切れ、暗がりに落ちていく光景。あのとき、確かに自分は、拾い上げるという選択肢を、自らの手で捨てたのだ。
「僕が、選んだんだ。ばあちゃんの手を掴む方を」
声が、震えた。後悔ではなかった。あの瞬間に戻っても、同じ選択をする。それでも――胸の奥が、抉られるように痛んだ。
あちらの世界と繋がる、唯一の手段。それが今、手元にない。
◇
ハンナが、震えるノアの背に、そっと手を置いた。
「あんたが、あたしを選んでくれた。それが、どれほど重いことか、あたしには分かってるよ」
「でも……ソラたちと、繋がれなくなった」
言葉にすると、急速に押し寄せる孤独感が、胸を締め付けた。母がかつて味わったであろう、あの独りきりの恐怖が、一瞬、重なって見えた。誰にも、伝えられない。声も、届かない。
「大丈夫だ」
アルバンが、静かに、しかしはっきりと言った。
「お前は、独りじゃない。今、ここに、四人もいる」
「そうだぞ」
ガレンが、腕を組んで、付け加えた。
「何だか知らんが、それがなくたって、お前を見捨てるようなやつは、ここにはいない」
その一言に、ノアは、少しだけ肩の力が抜けた。ガレンには、箱の中身も、その意味も、何も話していない。それでも彼は、何も聞かずに、そう言ってくれた。
「それに」
ルカが、口の端を、微かに上げた。
「お前が、簡単に諦めるようなやつじゃないってことは、この何日かで、嫌というほど分かった。何か、方法はきっとある」
ルカもまた、箱の存在も、ソラという名前も、何も知らない。それでも、彼の言葉は、迷いなくノアの胸に届いた。
その言葉に、ノアの目から、涙がこぼれた。悔しさと、それでも確かにある温もりと。両方が、混ざり合っていた。
「……ありがとう」
◇
窓の外は、まだ夜が深かった。追跡は、恐らく、まだ終わっていない。だが、この狭い部屋の中に、確かな結束があった。
明日、どう動くか。箱をどうするか。考えるべきことは山積みだった。それでも今は、ただ、生きてここにいることを、噛みしめていたかった。
ノアは、膝を抱え、そっと目を閉じた。
――お前は、独りじゃない。
アルバンの言葉が、まだ、耳の奥に残っている。箱を失っても、その言葉だけは、確かに、この手の中にあった。
外の闇の中で、遠くの犬が、一声、鳴いた。それ以外、何も聞こえない、静かな夜だった。




