第75話 アルバンの決断
翌朝、アルバンが戻ってきたのは、日が高く昇ってからだった。憔悴した顔で、宿の戸口に立つなり、深く頭を下げた。
「すまなかった。昨日、なぜか、朝から立て続けに雑務を言いつけられて……気づいたときには、遅かった」
「アルバンさんのせいじゃないです」
ノアは、静かに首を振った。だが、アルバンの表情は、晴れなかった。
「いや。……あれは、偶然じゃない。私を、意図的に遠ざけたんだ」
その言葉に、部屋の空気が、張りつめた。
「昨日、何を言われた」
アルバンの問いに、ノアは、昨日のやり取りを、ゆっくりと語った。境の番人という言葉。燃やされた記録。庇護という名の、静かな威圧。最後に告げられた、あの一言。
聞き終えたアルバンは、しばらく、何も言わなかった。ただ、握った拳が、小さく震えていた。
◇
「……繋がった」
「え?」
「以前、枢機卿は、こう仰った。『排除するか、組み込むか』と。あのときは、教義上の抽象的な物言いだと思っていた。だが、違ったんだ」
アルバンの声が、低く、重くなった。
「境の番人という存在を、御し切れないと判断すれば排除する。従わせられると判断すれば、組み込む。……お前は今、まさに、その天秤に乗せられている」
アルバンは、そこで、一度目を閉じた。開いたとき、そこには、自分自身への怒りに似た色があった。
「私は、鑑定官として、何年もお前を測ってきた。だが、私が測っていたつもりの相手は、私自身の方だったのかもしれない。……枢機卿が、どこまで見えているか、私は、ずっと見て見ぬふりをしてきた」
◇
「私は、記録保管室のことを、自分なりに調べ直した」
アルバンは、懐から、一枚の書き付けを取り出した。指先が、微かに震えていた。
「表向きは処分済みとされている記録の、搬出許可書だ。日付と、署名を見てくれ」
差し出された紙に、ノアは目を落とした。癖のある、几帳面な文字。何度も見てきた、ヴェルナーの署名だった。
「これ……」
「枢機卿ヴェルナー様の、直筆だ。記録保管室の管理者に、内々に確認を取った。……口の重い男だったが、私の階級を見て、渋々ながら教えてくれた」
アルバンの声が、掠れた。
「疑いは、していた。だが、これで、疑いではなくなった」
◇
しばらく、誰も、口を開かなかった。ハンナが、静かに、アルバンの顔を見つめた。
「アルバンさん。あんた、これを見つけて、どうするつもりだい」
アルバンは、目を閉じた。長い、長い沈黙だった。窓の外から、遠く、鐘の音が聞こえてきた。正午を告げる音だった。
「私が、鑑定官になったのは――」
アルバンは、ゆっくりと、口を開いた。
「幼い頃、村で、原因の分からない病に苦しむ者を、何人も見た。祈っても、治らなかった。あのとき、私は、正しい知識さえあれば、救えたのではないかと、ずっと考えていた。だから、この道を選んだ。人を、正しく導くために」
その声には、若い頃の悔恨が、今も色濃く残っていた。
「私は、鑑定官として、教会に忠誠を誓った。……だが、私が誓ったのは、教会という組織にではない。人を、正しく導くという、その理念にだ」
目を開けたとき、そこには、これまで見たことのない、澄んだ光があった。
「境の番人という存在を、都合よく利用し、都合が悪くなれば消す。……それは、私が信じてきた理念とは、正反対のものだ」
◇
アルバンは、ノアの前に、跪いた。膝が、床につく硬い音が、静かな部屋に響いた。
「私は、お前の味方になる。教会の鑑定官としてではなく、一人の人間として」
「アルバンさん……いいんですか。あなたの、立場は」
「危うくなるだろうな。最悪、地位を失うかもしれない。……もっと悪ければ、それ以上のことも」
アルバンは、静かに笑った。どこか、憑き物が落ちたような笑みだった。
「だが、地位を守るために、目を背け続けるくらいなら――失う方を選ぶ。それが、私自身への、最後の誠実さだと思う」
ハンナが、深く、頭を下げた。
「ありがとうよ。あんたが、そう言ってくれて」
「礼はいい。むしろ、遅すぎたくらいだ」
アルバンは、立ち上がりながら、静かに付け加えた。
「もっと早く、目を開けていれば――お前を、これほど危険な場所に、留め置かずに済んだかもしれない」
「アルバンさんは、ずっと、守ろうとしてくれてました。それだけで、十分です」
ノアの言葉に、アルバンは、一瞬、言葉を失った。それから、深く、頷いた。
◇
「これから、どうすればいいですか」
ノアの問いに、アルバンは、表情を引き締めた。
「枢機卿は、昨日の反応から、お前が容易には従わないと悟ったはずだ。となれば、次の手を打ってくるのは、早い」
「次の手、って」
「強制的な確保だ。……正式な手続きを踏まずとも、教会内部でなら、いくらでも理由はつけられる。『保護のため』『安全のため』――そういう、否とは言わせない言葉で」
その言葉に、ノアの背筋が、冷たくなった。
「時間は、恐らく、そう残されていない。今夜にも、動きがあるかもしれない」
アルバンは、そこで、一度、拳を握りしめた。
「正直に言えば、怖くないと言えば嘘になる。枢機卿ヴェルナー様は、教会の中でも、並ぶ者のない権勢を持つ方だ。逆らえば、私の家族にも、累が及ぶかもしれない」
その声には、隠しようのない恐れが滲んでいた。それでも、アルバンは、視線を逸らさなかった。
「だが、恐れて何もしなければ、私は、一生、自分を許せなくなる。……それだけは、はっきりと分かる」
アルバンは、立ち上がり、窓の外に目をやった。神殿の尖塔が、傾き始めた陽の光を受けて、静かに聳えていた。
「備えておこう。荷物は、いつでも動けるようにまとめておいてくれ。……ルカにも、声をかけておく」
「ルカさんにも?」
「彼は、この王都の裏道を、私よりよほどよく知っている。もしものときは、頼りになる」
その横顔には、迷いのない、確かな決意が浮かんでいた。ノアは、初めて、アルバンという人間の、本当の強さを見た気がした。恐れがないことが強さなのではない。恐れながらも、それでも動くことこそが、強さなのだと。
◇
アルバンが去った後も、部屋には、緊張した静けさが残っていた。ハンナが、荷袋の紐を、一つ一つ確かめるように結び直していく。
「ばあちゃん、怖くない?」
「怖いさ」
ハンナは、手を止めずに答えた。
「怖いが、それ以上に、今は、やるべきことがある。恐れは、後で、いくらでも感じればいい」
その言葉に、ノアは、小さく頷いた。
窓の外、王都の空が、赤く染まり始めていた。夕暮れは、いつもより早く、そして、いつもより不穏に、街を覆っていくようだった。




