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異世界少年と謎の物体と研究室の仲間たち〜森で拾った箱の向こうは現代日本でした〜  作者: gachapin2223


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第74話 ヴェルナーの罠

朝、まだ空気の冷たい時間に、宿の戸を叩く音がした。


ハンナが応対に出ると、そこにいたのは、見覚えのない神殿の従者だった。白い法衣に、灰色の飾り紐。深く頭を下げてはいたが、その声には、有無を言わせない響きがあった。


「枢機卿が、ノア様に、内密にお話がしたいとのことです。……お一人で」


「一人で、とは、どういうことだい」


ハンナの声が、鋭くなった。


「アルバン様には、既に別件でお動きいただいております。恐れながら、これは、枢機卿のご意向です」


その言い回しに、ハンナの顔が強張った。断れない。まるで最初から、そういう形に組み立てられていたかのようだった。逆らえば何が起こるか、口にせずとも分かる、静かな圧力がそこにあった。


「僕、行ってくる」


ノアは、努めて、平静な声を出した。だが、内側では、心臓が、嫌な速さで打ち始めていた。


「……無理はするんじゃないよ」


ハンナの手が、ノアの肩を、強く握った。その手の温もりを、ノアは、しばらく覚えておこうと思った。従者について歩き出す背中に、ハンナの視線が、いつまでも突き刺さっているのが分かった。


◇


神殿の奥へ進むほど、廊下は静かになり、天井は高くなっていった。窓は減り、代わりに並ぶ燭台の灯りだけが、石造りの壁に、長い影を落としている。すれ違う者もいない。足音は、ノアと従者、二人分だけだった。


冷たい空気が、喉の奥に、じわりと沁みた。ここは、人のための場所というより、権威そのもののための場所だと、ノアは感じた。


案内された部屋は、これまで通されたどの部屋よりも、装飾が少なかった。豪奢さではなく、静けさそのものが、力を示しているような部屋だった。壁の一面に、小さな祭壇。香の匂いが、微かに漂っていた。


「――枢機卿。ノア様をお連れいたしました」


従者が、深く一礼し、静かに扉を閉めて去った。閉じた扉の重い音が、部屋に響いた。逃げ場が、音を立てて塞がれたような気がした。


◇


「よく来た」


低く、落ち着いた声。窓を背にして立つ人影。逆光のせいで、その表情は、よく見えなかった。


「お座り」


促されるまま、ノアは、用意された椅子に腰を下ろした。扉の外に、足音が二つ。護衛だろう。


ヴェルナーが、ゆっくりと歩み寄り、正面の椅子に腰を下ろした。ようやく、その顔がはっきりと見えた。皺の刻まれた、しかし少しも老いを感じさせない、静謐な目だった。人を裁く目ではなく、値踏みする目だと、ノアは思った。


「単刀直入に、話そう」


「……はい」


「お前が抱えているものについて、私は、他の誰よりも、正しく理解している」


「境の番人、のことですか」


その言葉に、ヴェルナーの目が、わずかに細くなった。愉悦のような、それでいて冷たい何かが、そこに浮かんだ。


「その呼び名まで、辿り着いたか。……優秀だな。噂に違わず」


「知ってるなら、教えてください。母は、どうして」


「焦るな」


ヴェルナーの声は、変わらず、穏やかだった。だが、その穏やかさが、かえって不気味だった。感情を排した声は、まるで、目の前の少年を、既に測り終えた道具でも見るようだった。


「お前の母は、独りで、正しい導きもなく、その力と向き合った。だから、道を誤った。……お前は、同じ轍を踏む必要はない」


「導き、って」


「教会には、何世代にもわたって蓄積された、境界の力に関する知恵がある。お前を、その庇護の下に置けば、恐れることは何もなくなる」


ノアの胸の奥で、何かが、微かに揺れた。ずっと欲しかった言葉だった。独りじゃない、という言葉。誰かが、正しく導いてくれるという約束。母が得られなかったものを、今、目の前の男が差し出そうとしている。


その事実が、恐ろしいほどに、甘く響いた。


◇


「私に従えば、お前は、二度と、恐れずに済む。境の樹の反応も、体の異変も、すべて、こちらで管理し、御していく」


ヴェルナーの声が、わずかに、熱を帯びた。信仰にも似た響きだった。


「境の番人という力は、正しく用いれば、国を守る大きな盾になる。お前一人の幸福などより、遥かに大きな意味を持つ。……分かるな」


その一言で、ノアの中の何かが、すっと冷めた。


国を守る盾。お前一人の幸福などより。――それは、ノアという人間の意志を、はなから数に入れていない言葉だった。


「じゃあ、どうして」


ノアは、震える声で、続けた。


「境の番人のことを書いた記録を、燃やしたんですか」


◇


部屋の空気が、変わった。


ヴェルナーは、しばらく、何も答えなかった。ただ、静かに、ノアを見つめていた。値踏みする目が、わずかに、鋭さを増した。


「……なるほど。そこまで、調べていたか」


否定は、なかった。それが、何より雄弁な答えだった。


「知恵は、正しく管理されなければ、混乱を生む。境の番人の存在が、無秩序に世に知られれば、我も我もと利用しようとする者が現れる。国が乱れ、教会の権威も揺らぐ。だからこそ、私が、責任を持って、それを預かる必要がある」


「それは、独り占めってことじゃないですか」


ノアの声が、思わず、大きくなった。


「母は、それで死んだのに。誰も助けてくれなかったから」


「お前の母は、教会の外にいた。だから、届かなかっただけだ」


ヴェルナーは、静かに、しかしはっきりと言った。何の痛痒も感じていない声だった。


「だが、お前は違う。今、ここにいる。私の言葉に従えば、二度と、あの過ちは繰り返させない」


◇


その声には、誠実にすら聞こえる響きがあった。ノアは、一瞬、頷きそうになった。母のような孤独を、二度と味わいたくない。それは、心の底からの願いだった。


だが――


日記の最後の一文が、頭をよぎった。震える手で綴られた、あの一行。


「――独りにならないで。誰かに、話して」


母が望んだのは、教会に管理されることじゃない。誰かと、対等に、繋がることだったはずだ。ヴェルナーが差し出しているのは、その真逆のものだった。庇護という名の、檻だ。


「僕には、もう、独りじゃない理由が、ちゃんとあります」


ノアは、顔を上げた。震えを堪えながら、はっきりと、続けた。


「ばあちゃんも、ルカさんも、アルバンさんも。それに――こことは違う世界にも、僕を、僕として大事にしてくれる人たちがいます。国のためとか、教会のためとかじゃなく、ただ、僕自身を心配してくれる人たちが」


「誰かの持ち物になるためじゃなく、僕は、僕のままでいたいです」


◇


ヴェルナーは、しばらく、無言だった。その沈黙は、怒りでも失望でもなく、ただ、静かな観察のように、ノアには感じられた。まるで、想定していた反応の一つを、淡々と確認しているかのようだった。


「そうか」


短く、それだけ言った。声の温度は、変わらなかった。だが、その奥に、何か冷たいものが、確かに滲んでいた。


「今日のところは、それでいい。だが、覚えておくといい」


ヴェルナーが、立ち上がった。窓からの光が、その顔を、再び逆光の中へ沈めていく。


「庇護は、いつまでも、無条件に差し出されるわけではない。……お前が、いつまでも子供のわがままを通せると思わないことだ」


その一言に、ノアの背筋が、冷たくなった。脅しというには、あまりに静かだった。だからこそ、余計に、逃げ場のない重さがあった。


「下がってよい」


ヴェルナーは、それだけ言うと、再び窓の方へ向き直った。話は終わりだ、という合図だった。


◇


部屋を出た瞬間、ノアの足から、力が抜けそうになった。廊下の壁に手をつき、しばらく、動けなかった。膝が、まだ、細かく震えていた。


拒んだ。自分の意志で、はっきりと。


それは、確かな勝利だった。だが、勝利の後味は、少しも甘くなかった。ヴェルナーの最後の一言が、まだ、耳の奥に張り付いていた。


宿への帰り道、ノアは、何度も、来た道を振り返った。誰もいない。それでも、見られているような感覚が、拭えなかった。


その夜、境の樹越しの枠に、ノアは震える声で、今日のことを伝えた。


「枢機卿に、一人で呼び出された」


キョウジュの声が、鋭く尖った。


「大丈夫だったのか」


「うん。……断った。ちゃんと、断れた」


「よくやった」


ミオの声が、涙を堪えるように、震えていた。


「怖かったよね。それでも、ちゃんと言葉にできたんだね」


「うん。……でも」


ノアは、一度、言葉を切った。指先が、まだ、微かに冷たかった。


「最後に、言われたんだ。庇護は、いつまでも無条件じゃない、って」


枠の向こうが、沈黙した。その沈黙の重さが、答えの代わりだった。


「気をつけろ」


キョウジュの声が、硬くなった。


「相手は、教会のトップに近い人間だ。……何をしてくるか、分からない」


「うん」


ノアは、頷いた。今日勝ち取ったものの重さと、これから先の不安。その両方を抱えたまま、ノアは、夜の静けさの中に、しばらく座り込んでいた。


窓の外で、雲が月を隠し、部屋がふっと暗くなった。まるで、これから訪れる何かの、前触れのようだった。

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