第73話 母の日記
その日は、これといった用事もなく、静かに過ぎていった。神殿からの呼び出しもなく、記録保管室に通う予定もない、久しぶりの、何もない一日だった。
窓の外は、夕暮れに染まりつつあった。ハンナは、繕い物の手を止め、しばらく、宿の壁を見つめていた。
「ノア」
静かな声だった。いつもと、少し違う響きがあった。
「なに、ばあちゃん」
「見せたいものが、ある」
◇
ハンナは、荷袋の底、いちばん奥に手を入れた。取り出したのは、古い布に包まれた、小さな包みだった。ゆっくりと、布を解いていく。
中から出てきたのは、表紙の擦り切れた、手のひらほどの大きさの綴じ本だった。表紙には、押し花の跡だろうか、薄く色の抜けた染みが、いくつも残っていた。
「これは……」
「エレナの、日記だよ」
ノアの息が、止まった。
「村を出る前の晩、荷物をまとめてる時に、ふと目に留まってね。……理由も分からないまま、荷物の底に忍ばせた。読むためじゃない。ただ、離れたくなかっただけだ」
ハンナの指が、日記の表紙を、そっと撫でた。皺の刻まれた指先が、微かに震えていた。
「ずっと、開けられなかった。エレナの許しもなく、勝手に覗くようで、怖かったんだ。あの子が、あたしに隠したかったことを、無理やり暴くようで」
「今は……いいの?」
「境の番人、架け橋の子。……色々な言葉を聞いた。あの子が、独りで何を抱えてたのか、今なら、少しは分かる気がする。……もう、逃げちゃいけない気がしてね」
ハンナは、日記を、ノアの手に、そっと乗せた。ずしりとした重みが、掌に伝わった。紙の重さではない、何か別の重みのように、ノアには感じられた。
「あたしの目じゃ、細かい字は、もう追えない。……読んでくれるかい」
「うん」
ノアは、頷いた。喉の奥が、すでに、じんわりと熱くなっていた。
◇
ノアは、震える指で、最初のページを開いた。
「読むね」
「ああ」
紙は黄ばみ、インクは所々かすれていたが、文字は、丁寧に綴られていた。
「――今日も、樹の下に行った。行くつもりはなかったのに、気づけば、足がそちらへ向いていた。誰にも、言えない。ばあ様にも、村長にも。ただ、樹の前に立つと、体の奥から、何かが応えるように、震えるのだ」
ノアは、一度、言葉を止めた。ハンナが、静かに、続きを促した。
「続けて」
「――こんな話、誰も、信じてくれないだろう。魔力じゃない。もっと違う、何か。この村の外に出れば、あたしのようなものは、ただの気味の悪い娘だと思われるかもしれない。だから、誰にも言わない。ばあ様にさえも」
その一文に、ハンナが、小さく息を呑んだ。
◇
数ページ、日付が飛んだ。字が、少し丸みを帯びていた。
「――あの人が、求婚してくれた。嬉しい。だが、迷った。この秘密を抱えたまま、誰かと家族になっていいのか。何度も、断ろうと思った」
「――結局、何も言えないまま、嫁いだ。卑怯だと分かっている。でも、あの人の隣にいたかった。ばあ様――ハンナ様は、実の娘のように、あたしを迎えてくれた。それが、余計に、言い出せなくさせた」
その一文を読んだ瞬間、ハンナの肩が、小さく震えた。
「あたしは、何も、知らなかった」
「ばあちゃん」
「いいんだ。読み進めておくれ」
ハンナの声は、震えていたが、その先を求めていた。ノアは、頷いて、ページをめくった。
◇
ページが進むごとに、日付が飛び飛びになっていった。数年分が、まとめて記された跡が見て取れた。
「――ノアを身ごもった。嬉しい。だが、同時に、怖い。この子にも、あたしと同じものが宿っていたら。あたしのように、独りで抱え込ませることになったら」
ノアの手が、震え出した。
「――生まれた。小さな手で、あたしの指を握った。この子のためなら、何でもできる。そう思った」
「――ノアが、樹の方角を見て、笑うことがある。まだ、言葉も話せないのに。……気のせいだと、思いたい」
ハンナが、目を閉じた。皺の刻まれた頬に、光るものが伝った。
「――今日、ノアを負ぶって、境の樹の近くを通った。近づくにつれて、この子の体が、じっと、樹の方を見つめて動かなくなった。偶然だと、自分に言い聞かせた。だが、心の奥では、もう分かっていたのかもしれない」
ノアは、そのページで、しばらく手を止めた。自分がまだ覚えてもいない、赤子の頃の自分の姿が、そこに書き留められていた。
「僕、そんな小さい頃から……」
「あんたは、まだ、何も知らなかったはずだ」
ハンナが、震える声で答えた。
「知らなかったのは、あたしも同じだよ。エレナが、こんなに早くから、気づいていたなんて」
◇
「――決めた。樹に、通うのをやめる」
ノアの声が、掠れた。
「――この子に、同じ道を辿らせたくない。あたしが、樹との繋がりを断てば、この子への影響も、和らぐかもしれない。……根拠はない。ただの、母の勘だ。それでも、賭けてみる」
「――体が、重い。樹から離れるということが、こんなにも、体を蝕むとは、思わなかった。だが、後悔はない」
「――ノアが、笑った。あたしの知る、いちばん綺麗な笑顔だった。この子が、あたしのような孤独を、知らずに済むなら。それだけで、十分だ」
ノアの目から、涙がこぼれた。声を抑えられなくなり、しばらく、続きを読めなかった。
ハンナが、その背に、そっと手を置いた。
「大丈夫。……ゆっくりでいい」
◇
日記の終わりに近づくにつれ、文字は、次第に乱れていった。震える手で、必死に綴ったのだと、ひと目で分かった。行間には、インクの染みが、いくつも滲んでいた。涙の跡なのか、それとも、書き手の手が震えた跡なのか、もう、確かめる術はなかった。
「――魔力がないと、言われているらしい。それでいい。それで、いいんだ。誰も、この子を、あたしのようには見ない」
ノアの喉から、嗚咽が漏れた。
「出来損ない……それが、僕を、守るためだったんだ」
「――もう、長くは、書けないかもしれない。ノア。もし、いつか、あんたが、あたしと同じものを抱えていると気づく日が来たら。……独りにならないで。あたしのように、抱え込まないで。誰かに、話して。それだけが、あたしの、たった一つの願いだ」
日記は、そこで、途切れていた。最後のページは、白紙のまま残されていた。
◇
しばらく、部屋には、二人の泣き声だけが響いていた。
「ばあちゃん……」
「ああ」
「母さん、ずっと、独りで、怖かったんだね」
「そうだね。……でも、あんたのことを、こんなにも、想ってた」
ハンナは、ノアの体を、しっかりと抱きしめた。
「あたしは、何も、気づいてやれなかった。娘のように思ってたのに、いちばん近くにいたのに、何も」
「ばあちゃんのせいじゃない」
ノアは、涙を拭いながら、はっきりと言った。
「母さんが、隠したかったんだ。誰にも知られたくないくらい、僕を守りたかったんだ」
「……そうだね」
ハンナの声に、悲しみと、確かな温かさが、同時に滲んでいた。
しばらく、二人とも、何も言わずにいた。宿の外から、遠く、王都の喧騒が、微かに聞こえてくる。
「なあ、ノア」
ハンナが、涙を拭いながら、ふと、口元を緩めた。
「エレナは、料理が、ひどく下手だったんだよ。塩と砂糖を、よく間違えてね。あんたの父さんが、涙目で飲み込んでたのを、何度も見た」
「え……そうなの」
思いがけない話に、ノアは、涙の合間に、小さく噴き出した。
「なのに、薬草を煎じるときだけは、恐ろしく丁寧でね。あんたと、よく似てる」
「そっか……」
悲しみの中に、ふと差し込んだ、温かい光だった。ノアの頬に、涙と一緒に、小さな笑みが浮かんだ。
◇
「僕は」
ノアは、日記を、そっと胸に抱いた。
「母さんみたいに、独りでは、抱え込まない。約束する」
窓の外を見ると、王都の空に、一番星が瞬き始めていた。
「境の番人。架け橋の子。……名前は、色々あるみたいだけど」
ノアは、日記の最後の、白紙のページを見つめた。
「僕は、僕のやり方で、答えを見つける。母さんが、できなかったことを」
ハンナが、その言葉に、静かに頷いた。
「ああ。……あんたには、あたしも、ルカも、アルバンさんも、それに、あちらの世界の仲間たちもいる。エレナには、なかったものが、あんたには、ちゃんとある」
「うん」
ノアは、日記の白紙のページを、指先で、そっとなぞった。
「僕、この続きを、書いてもいいかな」
「続き?」
「母さんが、書けなかった続き。……独りじゃなかった、これから先の話」
ハンナの目に、再び、光るものが浮かんだ。だが、今度は、悲しみだけではなかった。
「いいとも。エレナも、きっと、喜ぶよ」
その夜、ノアは、境の樹越しの枠に触れなかった。今日知ったことを、まだ、言葉にする自信がなかった。ただ、日記を胸に抱いたまま、しばらく、静かに、母の名を、口の中で繰り返していた。
「エレナ」
一度も呼んだことのない、母の名前。それが今、確かな重みを持って、ノアの中に、刻まれていった。
明日、この話を、みんなに伝えよう。一人で抱えないと、約束したのだから。
窓の外の星は、いつまでも、静かに瞬き続けていた。




