第72話 柳瀬の記憶
その夜、研究室は、いつもより静かだった。
ノアから、境の樹越しに伝えられた話――記録保管室で見つかった、燃やされた記録。「境の番人」「架け橋の子」という古い呼び名。それらの報告を受けて、誰もが、しばらく言葉を失っていた。
「……焼かれた記録、か」
黒川が、腕を組んだまま、低く呟いた。
「誰かが、意図的に隠してる。それだけは、間違いなさそうですね」
美緒が、眉を寄せる。
工藤は、何も言わず、ただ画面のデータを睨んでいた。
「境の番人、架け橋の子――呼び方はどうあれ、ノアみたいな存在が、他にもいたってことだよな」
楓太が、腕を組んで唸った。
「なのに、記録ごと消されてる。誰かにとって、都合が悪いんだ」
◇
「境の番人、ね」
それまで黙っていた柳瀬が、ぽつりと口を開いた。その声には、どこか遠くを見るような響きがあった。
「その言葉……初めて聞いたはずなのに、なぜだか、引っかかる」
「柳瀬先生?」
美緒が、怪訝な顔をした。柳瀬は、しばらく目を閉じていたが、やがて、静かに語り始めた。
「黒川、覚えてるか。学生の頃、二人で夜な夜な、あの古い観測装置を弄っていたことを」
黒川の目が、大きく見開かれた。
「……まさか」
「思い出した。あの、正体不明の共鳴信号のことだ」
◇
「共鳴信号?」
工藤が、身を乗り出した。柳瀬は、頷きながら、続けた。
「もう、二十五年以上前の話だ。俺と黒川は、学生時代、別の研究室の装置を間借りして、宇宙線の観測実験をやっていた。……その最中、説明のつかない信号が、繰り返し検出された」
「どんな信号ですか」
「規則性はあるのに、既知の自然現象とも、機器の誤作動とも、どうしても一致しない波形だった。あの頃の私たちは、それを『幽霊信号』と呼んで、半ば冗談で追いかけていた」
「冗談で、片付けられる話だったんですか」
美緒が、身を乗り出して尋ねた。
「最初はな。だが、何度観測しても、同じ特徴を持つ波形が現れる。単なるノイズにしては、あまりに規則正しかった」
黒川が、後を引き取った。
「本気で解明しようとしたのは、私の方だった。あの信号の発生源を突き止めたい一心で、独自に転送理論の研究を始めた。……それが、今の試作機に繋がる、最初の一歩だった」
部屋の空気が、静まり返った。
◇
「つまり……」
美緒が、震える声で言った。
「試作機の研究そのものが、その信号を追いかけた結果、生まれたってことですか」
「そういうことに、なる」
黒川が、重々しく頷いた。
「あの頃、信号の発生源など、突き止められなかった。ただの自然現象か、機器の異常だと、結論づけざるを得なかった。……だが、今なら分かる」
「境の樹、ですか」
工藤の問いに、黒川は、答えなかった。だが、その沈黙が、何よりの答えだった。
「あの信号が、いつからのものだったか、正確には覚えていない。だが、少なくとも、二十五年以上前から――誰かが、何かに向かって、ずっと手を伸ばし続けていたということになる」
楓太が、震える声で呟いた。
「二十五年前って……ノアの、お母さんが」
その一言に、誰も、答えられなかった。
◇
「憶測で、決めつけるのは早い」
黒川が、静かに、しかしきっぱりと言った。
「だが――もし、そうだとしたら」
美緒が、後を続けた。
「私たちの研究は、最初から、ノアの家族と繋がってたことになる。箱が、あの森に現れたのも、偶然じゃなかった」
美緒は、自分の手のひらを、じっと見つめた。
「今まで、この研究を、自分たちの成果だと思ってた。でも、違ったのかもしれない。……呼ばれて、ここまで来ただけなのかも」
「悪い話じゃないだろう」
工藤が、ぶっきらぼうに言った。
「呼ばれた先に、ノアがいた。それだけで、十分意味がある」
美緒は、その言葉に、小さく頷いた。
ソラの声が、静かに、部屋に響いた。
「私のセンサーログにも、開発初期の記録が一部残っています。可能であれば、当時の波形データと、現在の境の樹の反応データを、照合してみます」
「頼む」
黒川が、短く答えた。
◇
その夜、境の樹越しの枠に、柳瀬が、今日分かったことを、慎重に伝えた。
「昔、俺と黒川が、説明のつかない信号を追いかけていた。それが、今の試作機に繋がってる。……その信号が、いつから、どこから来ていたのか。まだ、断定はできない」
枠の向こうで、ノアが、しばらく沈黙していた。
「もしかして、母さんが、その信号を出してたのかもしれないってこと?」
「まだ、分からない。だが……可能性は、ゼロじゃない」
ノアは、静かに息を吸った。
「母さんが、知らないうちに、そっちの世界にも、手を伸ばしてたのかもしれないんだ」
「そうかもしれないし、違うかもしれない。だが――」
柳瀬の声が、いつになく、優しくなった。
「もしそうだとしたら、お前とお母さんは、俺たちが思ってた以上に、ずっと前から、繋がってたことになる。この研究室と、お前の存在そのものが」
その言葉に、ノアの胸の奥が、熱くなった。
偶然じゃなかった。すべては、繋がっていた。
「僕が、あの森で箱を見つけたのも……ただの偶然じゃ、なかったんだね」
「かもしれない。まだ、断定はできないが」
柳瀬の声が、少し困ったように和らいだ。
「ただ、一つだけ、確かなことがある。お前が箱を見つけたのは、二十五年分の積み重ねの、その先だった。……そう考えると、少し、感慨深いな」
「うん」
まだ、答えの全部は見えていない。それでも、一つずつ、糸がほどけていくのを、ノアは、確かに感じていた。




