第71話 境の樹の巫女
翌朝、三人は、宿を抜け出すようにして、王都の外れへ向かった。アルバンには、あらかじめ「私的な用事」とだけ告げていた。詳しくは、あえて聞かれなかった。
石畳の道は、神殿に近づくほど白く磨かれていたが、離れるにつれて、次第にひび割れ、色褪せていった。行き交う人々の身なりも、少しずつ質素になっていく。
「こっちだ」
ルカが先導する道は、迷路のように入り組んでいた。人通りも少なく、洗濯物の紐がいくつも軒先に渡された、質素な通りだった。
「本当に、こんなところに?」
「見た目で判断するなよ。……着いた」
小さな木戸の前で、ルカが足を止めた。
◇
戸を叩くと、しばらくして、白髪の老女が顔を出した。深く刻まれた皺の奥に、油断のない目があった。
「……ルカかい。久しぶりだね」
「ミレナさん、お元気そうで」
「元気なもんか。歳を取ると、体のあちこちが軋む」
そう言いながらも、ミレナは、三人を家の中へ招き入れた。狭いが、整然とした部屋だった。壁際に、古い書物の束が、静かに積まれていた。
「で、今日は何の用だい。あんたが、わざわざ顔を出すときは、大抵、厄介事だ」
「勘がいいですね、相変わらず」
ルカは、苦笑しながら、事情をかいつまんで話した。ノアのこと、記録保管室のこと、燃やされた記録のこと。ミレナは、黙って聞いていたが、途中から、その表情が、次第に硬くなっていった。
「あんたには、学生の頃、色々世話になった」
ルカが、ぽつりと付け加えた。
「他の教官が匙を投げた古文書の読み方を、根気強く教えてくれたのは、ミレナさんだけだった」
「あんたが、しつこかっただけだよ」
ミレナは、そう言って、初めて、口元を緩めた。
◇
「……やっぱり、そういうことか」
話を聞き終えると、ミレナは、深いため息をついた。
「あたしはね、昔、神殿の記録保管室にいたんだよ。あんたたちが漁ってたのと、同じ場所さ」
「え」
「三十年も前の話だ。ある時期を境に、特定の記録が、次々に『整理』の名目で処分されていった。あたしは、それに疑問を持って、上に聞いて回った。……それで、早めの隠居を勧められたのさ」
その言葉に、部屋の空気が、張りつめた。
「怖くなかったんですか。上に、逆らうのが」
ノアが、思わず尋ねた。
「怖かったよ。だから、この歳まで、誰にも話さずにいた」
ミレナは、皺だらけの手を、膝の上で握りしめた。
「だが、あんたたちの顔を見てたら――このまま、墓場まで持っていくのも、違う気がしてきてね」
「あんた、名は?」
ミレナが、ノアに視線を向けた。
「ノアです」
「ノア。……あんたの目には、覚えがある」
ミレナは、ゆっくりと立ち上がり、書物の束の奥から、古びた一冊を取り出した。表紙のない、手製の綴じ本だった。
◇
「これは、あたしの生まれた土地――ここから海沿いに何日もかかる、小さな漁村に伝わってた話をまとめたものだ。正式な記録じゃない。ただの、婆さんの昔話さ」
ミレナは、ページをめくりながら、語り始めた。
「境の樹ってのは、この国のどこにも、一つしかないわけじゃない。あたしの村にも、似たようなものがあった。海沿いの崖に立つ、古い祠だ」
「他にも、あるんですか」
「あるとも。世界と世界の、繋ぎ目みたいなもんが、あちこちに散らばってるのさ。そして、そこに強く反応する者も、昔から、時々生まれてきた」
ミレナは、一つの単語を、静かに口にした。
「そういう者を、あたしの村では『境の番人』と呼んでいた」
「境の……番人」
ノアが、その言葉を繰り返した。胸の奥が、じん、と震えた。
「別の土地じゃ、『架け橋の子』と呼ぶところもあったそうだ。呼び方は違えど、意味するところは同じだよ」
◇
「境の番人は、大事にされたんですか。それとも……」
ノアの問いに、ミレナは、少し悲しげに笑った。
「時代と、土地による。ある時代は、村を守る巫女のように敬われた。だが、ある時代は――力を恐れられ、疎まれた」
「どうして、変わるんですか」
「力を持つ者が、それを、都合よく使いたがるからさ」
ミレナの声に、初めて、刃のような鋭さが混じった。
「境の番人の力は、集められれば、大きな力になる。……大昔、それを一手に握ろうとした者たちがいたと、あたしの村の言い伝えにはある。詳しいことは、あたしも知らない。だが、都合の悪い記録が、静かに消されていくのを、あたしはこの目で見てきた」
ハンナが、静かに口を開いた。
「ノアの母親も、境の樹に通っていた。あんたの言う、境の番人だったのかもしれない」
ミレナは、ハンナの顔を、じっと見つめた。
「……そうかい。なら、あんたの村は、まだ守られてる方だ。あたしの村の言い伝えじゃ、境の番人は、いつの間にか、姿を消していくことが多かったそうだ」
その一言に、ノアの喉が、詰まった。
「僕は――僕は、姿を消したくない」
震える声で、そう言った。ミレナは、しばらくノアを見つめてから、静かに頷いた。
「なら、独りにならないことだ。境の番人が消えていったのは、大抵、独りで抱え込んだ末のことだったと、あたしは思うよ」
ミレナは、そこで、声を落とした。
「もう一つ、言っておく。神殿の上の方には、この話に、いい顔をしない者もいるはずだ。誰を信じるか、よく見極めるんだね」
「気をつけます」
アルバンの顔が、ノアの脳裏をよぎった。信じたい。だが、ミレナの言葉が、小さな棘のように、胸に残った。
◇
帰り道、王都の喧騒の中を歩きながら、ノアは、胸の中で、ミレナの言葉を、何度も反芻していた。
境の番人。架け橋の子。
自分と同じ何かを抱えた人間が、これまでも、確かにいた。魔力ゼロの出来損ないではなく、名前のある何かだった。
その事実だけで、これまで胸の奥に沈んでいた孤独が、少しだけ、軽くなった気がした。
「一人じゃない、か」
呟いた声を、隣を歩くハンナが、静かに拾った。
「そうだね。一人じゃない」
ハンナの手が、そっと、ノアの肩に触れた。その温もりを感じながら、ノアは、夕暮れの王都の空を見上げた。
母もまた、この空の下で、同じ孤独と、同じ光を、抱えていたのだろうか。
その問いの答えに、少しずつ、近づいている気がした。




