第70話 消えた記録
朝、記録保管室に向かう足取りは、少し前より軽かった。ガレンの一件のおかげか、それとも――ハンナから聞いた母の話のせいか。ノア自身にも、はっきりとは分からなかった。ただ、恐怖だけだった日々に、少しずつ、別の感情が混ざり始めている。それだけは、確かだった。
「今日も、頼むぞ」
アルバンが、いつもの調子で棚の前に立った。ハンナも、隅の椅子に腰を下ろす。ルカは、もう別の棚を漁り始めていた。
薄暗い部屋に、埃の匂いが満ちる。いつもと変わらない、静かな一日の始まりだった。
「昨日は、ゆっくり休めたか」
アルバンが、帳面を一冊手に取りながら、尋ねた。
「うん。……色々、考えることが多かったけど」
「無理はするな。急いても、記録は逃げない」
その言葉に、ノアは、小さく頷いた。
◇
「この分類、見てくれ」
昼を過ぎた頃、アルバンが、一冊の目録を指差した。年代・地域ごとに整理された記録の一覧表。その中に、見慣れない項目があった。
「『境の異能に関する記録――第七架』。これは、まだ見ていない棚だ」
三人は、顔を見合わせた。「境」という文字に、誰もが反応した。
「今まで、見落としてたのか」
「目録自体、この保管室の隅に埋もれてた代物だ。普段使う棚とは、番号の並びが違う。気づかなくても、無理はない」
アルバンは、そう言いながらも、自分を責めるような口調だった。
「行ってみよう」
第七架は、部屋のいちばん奥、他よりもさらに古びた一角にあった。棚の番号を頼りに探すと――
「……ない」
アルバンの声が、掠れた。目録に記された番号の場所に、あるはずの帳面がなかった。空いた隙間だけが、そこにあった。
「棚を間違えたか」
ルカが、周囲を確認する。だが、番号は合っていた。ただ、そこだけが、ぽっかりと空いていた。
◇
「妙だ」
アルバンが、その空白の周りを、指でなぞった。
「この棚の他の場所は、何十年も動かされた形跡がない。埃の積もり方が、均一だ。だが、ここだけ――」
「ここだけ、薄い」
ノアが、指差した。空いた隙間の縁だけ、埃が薄く、まるで最近何かがそこから引き抜かれたかのようだった。
「誰かが、持ち出した……?」
「あるいは、処分したか」
アルバンの声に、これまで聞いたことのない硬さがあった。
その時、ハンナが、棚の下の隙間を覗き込んだ。
「これ、何だい」
椅子から降りて、床に膝をつき、奥に手を伸ばす。指先に触れたのは、小さく丸まった、紙の切れ端だった。
◇
広げてみると、それは、焼け焦げた紙の一部だった。縁が黒く炭化し、判読できる文字はわずかしかなかった。
「――境の……番人……は……」
ルカが、声に出して読み上げた。それ以上は、燃え跡で読み取れなかった。
「番人?」
ノアが、聞き返す。
「分からない。だが、これは――」
アルバンが、その紙片を、震える手で持ち上げた。
「意図的に、燃やされている。誤って落としたようなものじゃない。焼き切って、処分した跡だ」
部屋に、重い沈黙が落ちた。
「誰が、こんなことを」
「それは……」
アルバンは、言葉を濁した。だが、その表情には、はっきりとした苦悩が浮かんでいた。神殿の記録保管室は、彼にとって、疑うことのない場所だったはずだ。それが、内側から食い荒らされていた。
「私の知る限り、この保管室に立ち入れるのは、限られた者だけだ。……上の許しがなければ、こんな真似はできない」
その一言の重さに、ノアの胸が、冷たくなった。
「アルバンさんも、疑われるかもしれない?」
「私は、構わない。だが――」
アルバンは、一度、言葉を切った。
「神殿という場所が、都合の悪いものを、平気で焼き捨てる場所だったのだと知って、私自身、どう受け止めていいのか、分からずにいる」
その横顔には、村の御堂で見せたのと同じ、深い迷いの色があった。
◇
「見つからないなら、他を当たるしかないな」
沈黙を破ったのは、ルカだった。
「え?」
「正式な記録が消されてるなら、正式じゃないところを探せばいい」
ルカは、ニヤリと笑った。だが、その目は真剣だった。
「俺が学舎にいた頃、世話になった人がいる。……今は、神殿から離れてるがな。昔のことを、色々知ってる人だ」
「その人、会えるの?」
「多分な。街の外れに住んでるはずだ。明日、行ってみよう」
アルバンが、しばらく考え込んでから、頷いた。
「……表立っては、動けない。だが、個人的に、力になれることがあるなら」
「アルバンさんは、来なくていい」
ルカが、遮った。
「あんたの立場じゃ、まずいだろう。俺とハンナさんとノアで、こっそり行ってくる」
アルバンは、複雑な表情を浮かべたが、やがて頷いた。
「……分かった。だが、何かあれば、必ず知らせてくれ」
◇
その夜、境の樹越しの枠に、ノアは今日の出来事を伝えた。
「記録が、燃やされてた」
キョウジュの声が、しばらく黙り込んだ。
「意図的に、か」
「うん。アルバンさんが、上の許しがないとできないって」
ミオの声が、心配そうに響いた。
「大丈夫? 危ないこと、してない?」
「大丈夫。……ただ、誰かが、僕みたいな人のことを、知られたくないみたいだ」
その言葉に、枠の向こうが、また沈黙した。
「調べるのを、やめた方がいいと思う?」
ノアが尋ねると、今度はソラが答えた。
「いいえ。隠されたものほど、本当は、大切なものであることが多いです」
その一言に、ノアの胸に、静かな決意が灯った。
誰かが消そうとしたものを、自分は、諦めずに探す。
「明日、その人のところへ、行ってくる」
「気をつけてな」
キョウジュの声が、少し硬かった。
「うん。……ハンナとルカさんが一緒だから」
「何かあれば、すぐに知らせろ。俺たちにできることは少ないが、それでも」
「分かってる。ありがとう」
通話を終えても、ノアは、しばらく箱を抱えたまま、動けなかった。明日、ルカの知る人のもとへ向かう。答えは、まだ遠い。だが、隠された道の先に、確かに何かがあるのだと、ノアは、信じ始めていた。




