第69話 ガレンの選択
記録保管室に通う日々は、まだ続いていた。
あの日見つけた「二年後に戻った」という一件を手がかりに、ノア、アルバン、ルカは、同じ棚の周辺を、さらに丹念に洗い直していた。目立った収穫はまだない。それでも、誰も、手を止めようとはしなかった。
「今日も、行ってくる」
朝、ノアがそう告げると、ハンナは、いつものように頷いた。
「無理は、しなさんな」
「うん」
母のことを聞いた夜から、ノアの中で、何かが変わっていた。恐怖は消えないが、探す理由が、もう一つ増えていた。
◇
記録保管室では、ルカが、もう先に棚をあさっていた。
「おはよう、ノア。今日も、付き合ってもらうぞ」
「うん、よろしく」
アルバンも、間もなくやってきた。目の下に、うっすらと隈ができている。
「アルバンさんも、あまり眠れてないんじゃ」
「……お前ほどではないさ」
アルバンは、そう言って、微かに笑った。三人は、それぞれ違う棚に取りつき、無言のまま、帳面をめくり始めた。埃の匂いが、いつものように、部屋に満ちていった。
◇
神殿の廊下で、ノアは、思いがけない人影に出くわした。
「ガレンさん」
「……ノアか」
ガレンは、供も連れず、書状らしきものを手にしていた。
「領主様の用向きで、また来てる。お前は、まだここに?」
「はい。少し、調べものが」
その受け答えの短さに、ガレンは、わずかに眉を寄せた。だが、それ以上は聞かず、ただ、ノアの手元に目をやった。埃で黒く汚れた指先、乾いた目元、着古した服の袖。
「随分と、根を詰めているようだな」
「知りたいことが、あるので」
ノアは、それだけ答えると、一礼して、記録保管室へと急いだ。ガレンは、その後ろ姿を、しばらく見送っていた。
◇
その日の昼過ぎ、ガレンは、別件でアルバンを訪ねる途中、記録保管室の前を通りかかった。扉が、わずかに開いていた。
中を覗くつもりはなかった。だが、目に入ってしまった光景に、足が止まった。
薄暗い部屋の奥、埃をかぶった帳面に囲まれて、ノアが、一心に文字を追っていた。目は充血し、指先はぼろぼろの紙の端で傷だらけになっている。それでも、手を止めない。
「怖くなったら、休んでいいんだよ」
隣に座るハンナが、静かに声をかけた。
「大丈夫。……知りたいから」
ノアの声は、震えていたが、そこには、ガレンがこれまで見たどんな強がりとも違う、剥き出しの何かがあった。何かを企む者の目ではない。ただ、必死に、答えを探している子どもの目だった。
ガレンは、そっと、扉から離れた。
◇
夕刻、神殿の中庭で、ガレンは、一人で戻ってきたノアを呼び止めた。
「少し、いいか」
「はい」
ガレンは、しばらく、言葉を探すように黙っていた。
「お前が、何かを隠していると思っていた。村でも、街でも、ずっと」
「……はい」
「今も、その疑いが、完全に消えたわけじゃない」
ガレンの声は、いつも通り、素っ気なかった。だが、その先に続いた言葉は、ノアの予想と違っていた。
「だが、今日、見た。あの部屋で、お前がどんな顔をしていたか」
ノアは、何も言えなかった。
「あれは、隠し事をしている人間の顔じゃない。ただ、何かに追い詰められて、必死に手を伸ばしている顔だ」
ガレンは、そこで、一度、視線を外した。
「俺にも、昔、似たような顔をしていた頃があった。……何かは、言わんが」
意外な一言だった。ノアが、思わず顔を上げると、ガレンは、ばつが悪そうに咳払いをした。
「今の話は、忘れろ」
「俺は、お前の秘密が何なのか、これ以上は、詮索しない」
「……いいんですか」
「良いも悪いもない。俺は、領主様の益になるかどうかで動いてきた男だ。だが――」
ガレンは、珍しく、言葉に詰まった。
「あの顔を見て、まだ利害だけで測ろうとするほど、俺も、腐っちゃいない」
その一言に、ノアの喉の奥が、熱くなった。
「ガレンさん……」
「礼はいい。味方になったわけじゃない。ただ、これ以上、お前を疑って、追い詰めるのはやめる。それだけだ」
ガレンは、それだけ言うと、踵を返した。数歩進んだところで、足を止め、振り返らないまま、付け加えた。
「――早く、答えが見つかるといいな」
その背中が、夕闇の中に消えていくのを、ノアは、しばらく見つめていた。
疑いという名の、重く冷たい影が一つ、確かに、肩から下りていくのを感じていた。
◇
宿に戻り、ノアは、今日あったことを、ハンナにも話した。ハンナは、繕い物の手を止め、しばらく考え込んでいた。
「あの男が、ねえ」
「うん。……信じていいのか、まだ分からないけど」
「全部を信じなくていいさ。ただ、疑いが一つ減ったなら、それは、素直に喜んでおきな」
ハンナは、そう言うと、また針を動かし始めた。だが、その口元には、微かな安堵の色が浮かんでいた。
村での聞き込み、境の樹での攻防、去り際の刺すような視線――ガレンという名前には、これまで、緊張しかまとわりついていなかった。その一つが、今日、静かに解けた。
ハンナが休んだのを見計らって、ノアは、荷袋の底から箱を取り出した。境の樹越しの枠に、今日の出来事を伝える。
「ガレンさんが、もう疑わないって、言ってくれた」
キョウジュの声が、少し驚いたように応えた。
「あの男が、か」
「うん。……味方じゃないけど、敵でもなくなった、みたいな」
ミオの声が、柔らかく続いた。
「一つずつ、だね。……良かった」
ノアは、頷いた。まだ、答えは見つかっていない。だが、道の途中で、一つ、重荷が下りた。それだけのことが、今は、確かな支えだった。
窓の外を見ると、王都の空に、村では見たことのない数の星が瞬いていた。答えの見えない旅は、まだ続く。だが、その道の途中に、味方でも敵でもない、もう一つの立ち位置ができたことだけは、確かだった。明日もまた、あの薄暗い部屋で、帳面をめくる一日が待っている。それでも、肩の荷が一つ軽くなった分だけ、足取りは、確かに軽かった。




