第68話 母の名
枠を閉じた後も、ノアは、しばらく箱を抱えたまま、動けずにいた。
窓の外で、王都の灯りが、いくつも瞬いている。その一つ一つが、遠く離れた誰かの夜を照らしているのだと思うと、不思議な気持ちになった。
繕い物をしていたハンナが、その気配に気づき、手を止めた。
「どうした。なんだか、難しい顔をして」
「……ばあちゃん」
ノアは、迷いながらも、口を開いた。
「母さんも、境の樹に、よく行ってたんだよね」
ハンナの指が、針の上で止まった。
「前に言ってたよね。理由は分からないけど、樹の前に立つと、ほっとするって」
「……そうだね」
ハンナは、しばらく黙っていた。ランプの灯りが、皺の刻まれた横顔を、静かに照らしていた。
「工藤さんが、樹の反応、離れるほど強くなるって。まるで、引き離されまいと、手を伸ばしてるみたいだって、言ってた」
その言葉に、ハンナの肩が、小さく震えた。
「……そうか。手を、伸ばしてる、か」
◇
「ノア、座りな」
ハンナが、静かに、ベッドの端を叩いた。ノアは、素直に、その隣に腰を下ろした。
「あんたの母さんの名は、エレナだ」
初めて聞く名前だった。ノアの胸の奥が、じん、と熱くなった。
「今まで、言わなかったんだ」
「言わなかった。……言えなかった、と言った方が近いね」
ハンナは、遠くを見るような目をした。
「エレナは、若い頃から、よく境の樹に通っていた。理由を聞いても、はっきりとは答えなかった。ただ、樹の前に立つと、落ち着くんだ、と」
「うん」
「小さい頃から、そうだったよ。家の手伝いの合間に、ふらっといなくなったと思ったら、樹の下に座り込んでる。叱っても、悪びれもせず、笑って戻ってくる。……あんたが、薬草を見つけると顔を輝かせるのと、よく似てた」
ノアの胸に、じんわりと、温かいものが広がった。今まで、母の面影は、ぼんやりとした輪郭しか持っていなかった。それが、少しずつ、色を帯び始めていた。
「それだけなら、変わった娘だ、で済んだ。……だけど」
ハンナの声が、わずかに震えた。
「帰ってくるたびに、顔色が悪いことがあった。ふらついて、しばらく寝込むことも。治癒魔法の心得のある者に診てもらっても、悪いところは見つからない。ただ、疲れているだけだ、と言われて」
「病気、じゃなかったの」
「病気とも、違う。あたしには、そう見えた。……何かに、削られているような」
「いつから、そうなったの」
「あんたを、身ごもった頃からだったかね。……いや、それより、もう少し前だったかもしれない。はっきりとは、思い出せない」
ハンナは、そこで、小さく首を振った。
「一番ひどかったのは、あんたが生まれてから、しばらくの頃だ。樹に行っては、寝込む。行っては、寝込む。それでも、あの子は、樹に行くのをやめようとはしなかった」
「どうして、やめなかったんだろう」
「さあね。……行かずにいられない何かが、あったんだろうよ」
◇
ハンナは、そこで一度、言葉を切った。手元の繕い物を、膝の上でぎゅっと握りしめる。
「あんたの父さんは、心配して、樹の下まで様子を見に行ったことがある。でも、エレナは、いつも一人で行きたがった。誰かが付いてくると、途中で気づいて、引き返してしまう」
「一人じゃないと、駄目だったの」
「駄目、というより……誰かに、見られたくなかったのかもしれないね。今の、あんたと同じだ。あたしにも、簡単には打ち明けられなかったんだろう」
その言葉に、ノアは、胸を突かれた気がした。自分もまた、箱のことを、長い間、誰にも言えずにいた。母もまた、同じように、一人で何かを抱えていたのだとしたら。
「聞けばよかったんだ。何度も、聞こうとした。でも――」
「でも?」
「踏み込んじゃいけない気がしてね。あの子が、必死に隠そうとしているものを、無理に暴くのが、怖かった」
ハンナの目に、うっすらと光るものが浮かんだ。
「今になって思えば、それが、間違いだったのかもしれない。ちゃんと聞いていれば、何か、違ったかもしれない」
ノアは、ハンナの手に、そっと自分の手を重ねた。祖母の手を、こんなふうに握るのは、久しぶりだった。
「ばあちゃんのせいじゃない」
「……ノア」
「母さんも、多分、ばあちゃんに心配かけたくなかっただけだと思う。……僕が、今、そうしたいって思うみたいに」
ハンナは、しばらく、ノアの顔を見つめていた。それから、握られた手を、そっと握り返した。
「あんたは、本当に、あの子に似てる」
その一言に、二人の間に、静かな沈黙が落ちた。悲しみと、どこか温かいものが、同時に胸に満ちていくのを、ノアは感じていた。
「ばあちゃん、話してくれて、ありがとう」
「……あたしの方こそ、長い間、抱え込んで、悪かったね」
窓の外では、王都の夜が、静かに更けていた。エレナという名前が、初めて、この部屋の中に、確かな輪郭を持って存在していた。
「ねえ、ばあちゃん。母さんは、どんな人だった?」
ハンナは、一瞬、驚いたように目を見開いた。それから、ゆっくりと、口元を緩めた。
「よく笑う子だったよ。畑仕事は苦手だったが、薬草のことになると、誰よりも熱心だった。あんたの、その粘り強いところは、間違いなく、エレナ譲りだ」
「そっか」
ノアの口元にも、自然と、笑みがこぼれた。悲しみの中に、確かに、温かいものが差し込んでいた。
母は、一人で、何かに耐えていた。それが何なのか、まだ分からない。だが、ノアには、母と自分が、同じ何かを分けて持っているのだという予感が、静かに、胸の奥に根を下ろし始めていた。
一人で抱え込んで、消えていった母。今、自分の隣には、ハンナがいて、王都には仲間がいて、遠い枠の向こうにも、支えてくれる声がある。
母が持てなかったものを、自分は持っている。そのことに、ノアは、まだうまく名前をつけられずにいた。それでも、その名前のない何かが、確かに、今夜の自分を支えてくれていることだけは、分かっていた。




