第67話 遠い言葉
朝、宿の窓から差し込む光に、ノアは目を覚ました。
昨日の記録保管室での発見の余韻が、まだ胸の奥に残っていた。二年後に戻った者がいた――その一行を、寝る前にも、何度も思い返していた。
隣のベッドでは、ハンナがまだ寝息を立てている。音を立てないよう、荷袋の底から箱を取り出し、指先で触れた。
「クドウさん、いる?」
少し間があって、聞き慣れた声が答えた。
「ああ、いるぞ。……ちょうどいい。今夜、まとめて話したいことがある。ちょっと待ってろ」
「何か、分かったの」
「まだ途中だ。でも、面白いことになってる」
声の奥に、抑えきれない興奮のようなものが滲んでいた。
「今夜、また繋いでくれ。今日の記録保管室の方も、頑張ってこいよ」
「うん」
いつもより弾んだ声だった。ノアは、箱をそっと抱きしめ、その日を待つことにした。
◇
同じ頃、研究室では、工藤が、机いっぱいに広げたログの束を睨んでいた。
「やっぱりだ」
「何が?」
美緒が、コーヒーを片手に覗き込む。
「接続の安定度と、境の樹の光の強さ。この二つのグラフ、重ねてみろ」
工藤が、画面に二つの折れ線を並べた。一方は距離の推移、もう一方は樹の反応の強さ。村から街、街から王都と、ノアが遠くへ移動するたびに、線は同じ向きに跳ね上がっていた。
「王都に着いた日、キョウジュが『安定してる』って言ってただろ。あれの続きだ。あのときは、距離が離れたのに繋がりが弱くならなかった、ってだけの話だった。だが、こうして数字で並べてみると、それどころじゃない」
「離れるほど……強くなってる?」
「普通は逆だろ。電波でも何でも、離れれば弱くなる。なのに、こいつは――」
「離れるほど、繋がろうとする力が強くなってる、ってこと?」
美緒の声が、わずかに震えた。
「村から街までの距離のときは、この程度だった」
工藤が、グラフの一点を指でなぞった。
「街から王都までは、その何倍も離れてる。なのに、増え方は、距離の比率よりずっと大きい。単純に引き伸ばしただけの線じゃない」
「他に、何か条件が絡んでるってこと?」
「かもしれない。データが、まだ足りない」
工藤は、そう言いながらも、画面から目を離さなかった。
◇
そこへ、黒川がやってきた。グラフを一目見て、しばらく黙り込んだ。
「工藤くん、これは、単なる距離の関数じゃないな」
「教授も、そう思いますか」
「距離が開くほど反応が強まるのは、まるで――引き離されまいと、手を伸ばしているようだ」
その言葉に、部屋の空気が、少しだけ張りつめた。
「怖い話にしないでくださいよ、教授」
楓太が、わざと明るい声で割って入った。
「ソラ、お前はどう見る?」
「私のセンサーでも、同様の傾向を確認しています」
ソラの声が、静かに答えた。
「村から街への移動のときも、わずかな増幅がありました。ですが今回、街から王都への増幅幅は、その比ではありません。距離だけでなく、ノアさんの心の状態とも、何らかの相関があるかもしれません。データが少なく、断定はできませんが」
たまたま様子を見に来た柳瀬が、画面を覗き込んで唸った。
「体の消耗と似てるな。追い詰められるほど、無理に力を絞り出す――そういう反応に見える」
美緒が、そっと呟いた。
「怖いときほど、強く繋がろうとしてるのかもね」
その一言に、誰も、すぐには答えなかった。
「証拠もないのに、決めつけるのは早い」
柳瀬が、腕を組んで言った。
「だが、可能性としては、頭の隅に置いておく価値はある。ノア君の側で、何か強い負荷がかかっているとき、こちらの反応も強まる――そういう相関なら、注意のしようもある」
「注意って、具体的には?」
美緒が尋ねると、柳瀬は、少し困ったように眉を下げた。
「そこまでは、まだ分からん。ただ、異変があれば、すぐ気づけるようにはしておきたい」
黒川が、静かに頷いた。
「引き続き、データは取り続けよう。焦って結論を出すよりも、今は、材料を集める段階だ」
◇
「――これは、ノアに伝えるべきことか」
黒川が、腕を組んで言った。
「怖がらせるだけかもしれない」
「いや」
工藤が、首を振った。
「あいつは、知りたがるやつだ。知らないままの方が、よっぽど怖い」
美緒が、頷いた。
「それに――希望にもなる。距離があっても、ちゃんと繋がろうとしてくれてるって、知ることは」
その夜、境の樹越しの枠に、工藤がグラフの話を伝えた。
「離れるほど、樹の反応が強くなってる。理由はまだ分からない。教授は、単なる距離の関数じゃないだろうって言ってた。でも――お前と、こっちの世界を繋ぐものが、簡単に切れるようにはできてない、ってことだけは、分かった」
枠の向こうで、ノアが、しばらく黙っていた。
「……樹が、僕を、探してくれてるみたいだ」
「かもな」
工藤の声が、柔らかくなった。
「まだ、分からないことだらけだ。それでも、少しずつ、手がかりは増えてる」
「うん」
ノアの声に、初めて、今日一日の張りつめが緩むのが感じられた。
「ありがとう。……みんなが調べてくれてること、僕、忘れない」
通話を終え、ノアは、しばらく箱を膝に乗せたまま、動かなかった。
樹が、引き離されまいと手を伸ばす――その言葉が、頭の中で、ふと、別の誰かに重なった。
母も、昔、あの樹の近くによく行っていたと、ハンナが言っていた。理由は分からないが、樹の前に立つと、ほっとすると。
もしかしたら母も、同じように、何かに手を伸ばされていたのだろうか。
隣のベッドで、ハンナが、寝返りを打った。その寝顔を、ノアは、しばらく見つめていた。
聞いてみたい。だが、どう切り出せばいいのか、まだ分からなかった。
その問いは、答えの出ないまま、静かに胸の奥に沈んでいった。窓の外が白み始めるまで、ノアは、しばらく、その温かい重さを抱えたまま、眠りに戻れずにいた。




