第66話 記録保管室
ヴェルナーが訪れた翌朝、アルバンが客間を訪ねてきた。いつもより、少し早い時間だった。
「昨日は、すまなかった。……あの方を止めることしか、私にはできなかった」
「いえ、助けてもらいました」
「一つ、提案がある」
アルバンは、そう切り出すと、めずらしく前のめりな口調になった。
「お前のような反応を示した者が、過去にいなかったか。神殿の記録保管室を、一緒に調べてみないか」
その言葉に、ノアの胸が、小さく跳ねた。
「僕以外にも、いたかもしれないってことですか」
「可能性の話だ。だが、知らないままでいるよりは、ずっといい」
部屋の隅で、繕い物をしていたハンナが、顔を上げた。
「あたしも、行くよ」
「ハンナ殿は、ここでお待ちいただいた方が」
「いいや」
ハンナは、きっぱりと言い切った。
「あの子が知ろうとしていることを、あたしも知りたい。それだけだ」
アルバンは、しばらくハンナの顔を見つめていたが、やがて、静かに頷いた。
「……分かりました。ご一緒ください」
◇
記録保管室は、神殿の地下にあった。石の階段を下りるごとに、空気が冷たく、埃っぽくなっていく。壁一面の棚には、革表紙の分厚い帳面が、隙間なく詰め込まれていた。灯りは、天井近くの小さな明かり取りと、持参したランプだけ。薄闇の中に、古い紙とインクの匂いが、重く沈んでいた。
「ノア! こっちだ」
先に来ていたルカが、手を振った。
「アルバン殿から聞いてね。俺も、昔ここで少し勉強したことがあるんだ。案内役なら任せてくれ」
「ありがとう、ルカさん」
「礼はいいから、探すぞ。時間は、あまりないかもしれない」
ルカの声には、いつもの軽さの下に、真剣な響きがあった。
ハンナは、部屋の隅に置かれた古い椅子に腰を下ろし、三人の作業を静かに見守ることになった。
「あたしの目じゃ、細かい字はもう追えない。……代わりに、あんたたちを見ていることにするよ」
◇
ノア、アルバン、ルカの三人は、埃をかぶった帳面を、一冊ずつ開いていった。鑑定の記録は、地域ごと、年代ごとに分類されていたが、古いものほど文字が薄れ、判読が難しかった。棚から棚へと歩き回るたび、積もった埃が舞い、細い光の筋の中で、ゆっくりと渦を巻いた。
「これは、違うな」
「こっちも、ただの高位魔力の記録だ」
何十冊とめくるうち、ノアの指先は、埃で黒く汚れていった。目が乾き、時折、文字が滲んで見えた。それでも、手を止めなかった。
「疲れたら、休んでいいんだぞ」
ルカが、声をかけた。
「大丈夫。……知りたいから」
ノアは、そう答えると、また次の帳面に手を伸ばした。棚の奥に進むほど、記録は古く、脆くなっていった。指先が触れるだけで、紙の端がぼろぼろと崩れる帳面もあった。アルバンは、そのたびに、細心の注意を払いながらページをめくっていった。
「見つからないな……」
ルカが、額の汗を拭いながら呟いた。窓のない部屋では時刻の感覚が曖昧になり、どれほどの時間が過ぎたのか、誰にも分からなかった。ハンナは、椅子に座ったまま、じっと三人の背中を見つめ続けていた。
それでも、誰も、探す手を止めようとはしなかった。
「あった」
ルカの声が、静かな部屋に響いた。
三人は、一冊の帳面を囲んだ。そこには、遠い昔、赤でも青でも金でもない反応を示した者の記録が、簡潔に記されていた。
「その者は、神殿に召し上げられた後……戻らなかった、と」
アルバンの声が、低くなった。ページをめくると、似たような記述が、さらに二件、三件と見つかった。どれも同じだった。召し上げられ、記録が途絶え、そのまま消息が知れない。
ノアの手が、震えた。ハンナが、椅子から立ち上がり、そっと隣に来て、その手を握った。
「大丈夫。まだ、最後まで読んでいない」
その言葉に、ノアは、震える息を吐き出した。
◇
「怖くなったか」
ルカが、静かに聞いた。
「うん……。でも」
ノアは、一度、深呼吸をした。
「最後まで、見てみたい」
アルバンが、次のページを繰った瞬間、三人は、同時に息を呑んだ。
そこには、他とは違う一行があった。
「この者、二年の後、故郷へ帰還す」
「帰った……人がいる」
ノアの声が、震えながらも、確かな熱を帯びた。
「たった一件だが……確かに、ある」
アルバンが、食い入るようにページを見つめた。
「帰還の経緯は、記されていない。だが、可能性が、ゼロではないということだ」
ルカが、ノアの肩に手を置いた。
「見ろよ、その顔。さっきまでとは、違う」
ノアは、自分の頬に触れた。恐怖は、消えたわけではなかった。それでも、そこに小さな光が差し込んだのを、確かに感じていた。
◇
その夜、境の樹越しの枠に、ノアは今日の発見をそのまま伝えた。
「戻れた人が、一人だけ、いたって」
キョウジュの声が、しばらく沈黙したあと、静かに応えた。
「一件でも、前例があるということは、大きい。……その方法が分かれば、道筋が見える」
「記録には、経緯が書かれてなかったの」
ミオが尋ねた。
「うん。でも、諦めずに調べてみるって、アルバンさんが」
「私たちも、こちらで調べられることがないか、探してみます」
ソラの声が、いつもより力強く響いた。
「経緯が記されていないなら、その人自身の記憶か、周りの証言が残っているかもしれない。当時の記録を、こちらでも当たれる範囲で探してみる」
クドウの声も続いた。距離を隔てていても、できることを探そうとする声に、ノアは、胸の奥が温かくなるのを感じた。
「ありがとう。みんなが、一緒に探してくれるだけで……全然違う」
「当たり前です」
ミオが、笑いを含んだ声で答えた。
「あなたの謎は、もう、あなただけのものじゃありませんから」
その一言が、今日の記録保管室での重苦しい沈黙を、少しずつ溶かしていくようだった。窓の外では、王都の夜が更けていく。恐怖は、まだそこにあった。だが、その隣に、小さな希望が並んで立っていることを、ノアは初めて感じていた。明日もまた、あの薄暗い部屋で、帳面をめくる一日が待っている。それでも、もう独りでめくるわけではない。そのことだけが、確かな支えだった。




