第65話 枢機卿ヴェルナー
神殿の客間に移ってから、三日が過ぎていた。
窓の外に見える景色は変わらないのに、ここでの時間の流れ方は、村とはまるで違っていた。誰かが訪ねてくるでもなく、かといって外へ出ることも許されない。ただ、じっと待つだけの日々だった。
「退屈だろう」
ハンナが、繕い物の手を止めずに言った。
「うん。……でも、何かが起きるよりは、いいのかもしれない」
「そうだね」
その日の午後、扉を叩く音がした。いつもの給仕の者とは違う、重い響きの叩き方だった。
◇
扉の向こうに立っていたのは、これまで会った誰とも違う空気をまとった人物だった。
深紅の法衣、白髪に近い銀の髪、そして、値踏みするのとも違う、値踏みする必要すらないという種類の視線。歳の頃は、村長よりもいくらか上だろうか。だが、その佇まいには、年齢という物差しでは測れない重みがあった。メルヴィンの持つ威圧感が力によるものだとすれば、この人物のそれは、揺るがない確信によるものだと、ノアは直感的に感じ取った。
「枢機卿ヴェルナー様が、お越しです」
供の者が、そう告げて頭を下げた。
「突然の訪いを許してほしい」
ヴェルナーの声は、静かで、それでいて、部屋の隅々にまで届くような響きを持っていた。
「アルバンから、報告を受けている。……お前が、ノアだね」
「はい」
ノアは、頭を下げながらも、背筋に冷たいものが走るのを感じていた。ガレンの疑いとも、アルバンの動揺とも違う。この人は、最初から答えを知っているような目をしている。
◇
ヴェルナーは、勧められてもいない椅子に、当然のように腰を下ろした。
「鑑定の記録は、私も直接目を通した。あのような反応は、私も長い神殿勤めの中で、初めて目にするものだった」
「……それは、悪いことなんでしょうか」
ノアが尋ねると、ヴェルナーは、わずかに口の端を上げた。笑ったのかどうか、判然としない表情だった。
「善悪の話ではない。意味の話だ」
「意味……」
「教会が守っているのは、人と神との秩序だ。お前のような反応は、その秩序の外にある。……外にあるものは、二つの扱い方しかない。排除するか、秩序の内側に組み込むか」
淡々とした口調が、かえって、その言葉の重さを際立たせていた。ハンナが、ノアの肩に、そっと手を置いた。
「うちの孫は、道具じゃありませんよ」
「もちろんだ、ハンナ殿。私は、そのようなことは一言も言っていない」
ヴェルナーは、静かにハンナへ視線を移した。
「ただ、お前の孫が持つものは、一人で抱えるには大きすぎるかもしれない、という話をしている。神殿には、その大きさに見合うだけの、知恵と器がある」
ハンナは、それ以上言葉を返さなかった。だが、ノアの肩に置かれた手には、目に見えて力がこもっていた。ヴェルナーは、その様子を、興味深そうに眺めていた。まるで、抗おうとする意志そのものを、観察の対象にしているかのようだった。
◇
「少し、二人だけで話をさせてもらえないだろうか」
ヴェルナーが、そう切り出した瞬間、部屋の空気が、一段と張り詰めた。
ノアは、答える前に、喉が乾いていくのを感じた。
「その必要は、ないかと存じます」
戸口から、静かな声が割って入った。アルバンだった。
「枢機卿様。この子は、まだ正式な沙汰の対象であり、単独での聴取は、手順を踏んでからにするべきかと」
「アルバン。お前は、私の邪魔をするのか」
ヴェルナーの声に、初めて、かすかな鋭さが混じった。
「邪魔ではございません。……手順の話です。領主メルヴィン様の預かりという形を取っている以上、私どもの一存だけでは進められません」
しばらくの沈黙が、部屋に落ちた。ヴェルナーは、アルバンをじっと見つめていたが、やがて、小さく息をついた。
「……分かった。今日のところは、これで引こう」
立ち上がりながら、ヴェルナーは、最後にもう一度、ノアへ視線を向けた。
「急ぐ必要はない。お前がどういう答えを出すにせよ、私は、待つことができる」
その言葉を残して、ヴェルナーは部屋を出ていった。
◇
扉が閉まった後、ノアは、ようやく詰めていた息を吐いた。
「ありがとうございます、アルバンさん」
「礼はいい。……あの方の言うことは、間違ってはいない。だが、正しいことが、いつも良いこととは限らない」
アルバンは、そう言うと、複雑な表情を見せた。
「私には、まだ、何が正解か分からない。ただ、性急に事を進めることだけは、避けたいと思っている」
その横顔には、村の御堂で見せた迷いが、まだ色濃く残っていた。
「今日は、これで」
アルバンは、それだけ言うと、静かに部屋を辞した。
◇
その夜、境の樹越しの枠に触れると、いつもより早く、クドウの声が応えた。
「何かあったのか。……声が、硬い」
「うん。……ちょっと、怖い人が来た」
ノアは、今日あったことを、できるだけ落ち着いて伝えた。話し終えると、しばらく、枠の向こうが静かになった。
「距離があっても、俺たちにできることは少ない。それでも」
クドウの声が、静かに続いた。
「何かあったら、すぐに言え。お前が一人で決める必要はない」
「うん」
ミオの声も、寄り添うように重なった。
「怖かったら、怖いって言っていいんですよ」
その言葉に、ノアは、少しだけ肩の力が抜けるのを感じた。会ったこともない相手に向けられた、あの静かな圧力を思い出すと、まだ胸の奥がざわついていた。それでも、遠く離れた場所から届く声が、その揺れを、少しずつ鎮めてくれていた。
窓の外では、王都の夜が、いつもと変わらず更けていく。だが、ノアの中には、これまでとは違う種類の緊張が、静かに根を下ろし始めていた。
ガレンの疑いは、正体を暴こうとするものだった。アルバンの警戒は、教義への戸惑いだった。だが、ヴェルナーの視線には、そのどちらとも違う何かがあった。答えを急かすのではなく、こちらが根負けするのをただ待っている――そんな静かな圧力を、ノアは初めて肌で感じていた。
「急ぐ必要はない、か」
呟いた自分の声が、思いのほか小さく響いた。待つと言われたことが、なぜこれほど恐ろしく感じられるのか、ノアにはまだ、うまく言葉にできなかった。




