第64話 二人の思惑
宿の一室に呼び出しが届いたのは、王都に着いた翌日の朝だった。
取次いだのは、昨日の灰色の外套の男ではなく、見覚えのある紋章を身につけた供の者だった。
「メルヴィン様が、お二人をお呼びです」
その名前に、ノアの手が止まった。
「領主様が……ここに」
「都での用向きのついでだそうです。急ぎ支度を」
ハンナと顔を見合わせる。予定にない呼び出しに、良いものか悪いものか、判断がつかなかった。
◇
案内された屋敷は、村の家々をすべて合わせたよりも広い庭を持っていた。刈り込まれた生垣の向こうに噴水があり、水音が絶え間なく響いている。廊下を歩くだけで、村の一年分の暮らしがそこに収まってしまいそうな豪奢さに、ノアは何度も足を止めそうになった。
通された部屋には、すでにメルヴィンが腰を下ろしており、その傍らに、ガレンが控えていた。
「久しいな、少年」
メルヴィンの声は、以前会ったときと変わらず、値踏みするような響きを含んでいた。
「あの試しの夜以来か。……壮健そうで何よりだ」
「はい、おかげさまで」
ノアは、頭を下げながらも、警戒を解かなかった。この人が善意だけで動くわけではないことは、ロザの一件の記憶が教えてくれていた。
「単刀直入に言おう。お前が神殿に召し上げられると聞いて、こうして出向いてきた」
メルヴィンは、脚を組み替えながら続けた。
「お前は、我が領の民だ。神殿が一存で連れ去るというなら、看過できん」
「メルヴィン様」
そこで、部屋の入り口から、静かな声がかかった。振り返ると、そこに立っていたのは、アルバンだった。
「そのお話、私も同席させていただいてよろしいでしょうか」
ノアは、思わず息を呑んだ。村の御堂で交わした言葉を、まだ覚えている。「ただの出来損ないではないかもしれん」――あのときの、動揺を隠しきれなかった横顔も。
アルバンは、静かに部屋の中へ進み、一礼してから、メルヴィンの向かいに腰を下ろした。
◇
アルバンが席に着くと、部屋の空気が、目に見えて張り詰めた。
「アルバン殿。ちょうどいい。単刀直入に聞くが、この子をどうするつもりだ」
「私の一存では、何とも申し上げられません。……ですが」
アルバンは、一度言葉を切った。
「中央よりのご沙汰は、まだ届いておりません。今しばらく、時をいただきたいというのが、正直なところです」
「時を稼いでいる間に、何が変わる」
メルヴィンの問いに、アルバンは、すぐには答えなかった。ノアには、その沈黙の理由が、なんとなく分かるような気がした。あの再鑑定の日、水晶が示した記録にない反応。アルバン自身、まだ答えを持っていないのだ。
「メルヴィン様のお立場も、私には理解できます。ですが、これは神殿の教義に関わる話でもあります。私の一存で、どちらか一方に決着をつけるわけにはいきません」
「面倒な話だ」
メルヴィンは、そう吐き捨てながらも、その口元には、どこか計算する色があった。
「ならば、こうしよう。この子とハンナ殿は、正式な沙汰が下るまで、我が領の預かりとして、神殿の客間に留め置く。神殿の監督は受けるが、身柄は我が方の管理下に置く、という形でどうだ」
「……ご提案として、上に伝えます」
アルバンは、慎重に言葉を選びながら、答えた。
「即答はできかねますが、無下にはいたしません」
◇
短いやり取りの応酬のあと、部屋を辞するとき、ガレンが、ノアの横をすれ違いざまに、小さく言った。
「礼を言うなら、後にしろ。まだ、何も決まっちゃいない」
「……はい」
「メルヴィン様にとっちゃ、お前は領地の名を上げる駒だ。それだけは、忘れるな」
素っ気ない言葉だったが、その奥に、何か別のものが滲んでいるようにも感じられた。ノアには、まだそれが何なのか、はっきりとは掴めなかった。
「ガレンさんは、どうして今日、ここに」
「メルヴィン様のお供だ。それ以上でも、以下でもない」
そう言い切ったガレンの横顔は、しかし、村での鋭さとは、どこか違って見えた。ノアがそのことを口にしようとした瞬間、ガレンはすでに背を向けて歩き出していた。
◇
宿への帰り道、ハンナが、ぽつりと言った。
「面白いものだね。あんたを守ろうとしてる人たちが、みんな、少しずつ違う理由で動いてる」
「メルヴィン様は、村のためじゃないよね」
「ああ。でも、理由がどうであれ、今すぐ連れて行かれずに済んだのは、確かなことだ」
その言葉に、ノアは、小さく頷いた。大人たちの思惑が絡み合う中で、自分の居場所が決められていく。落ち着かない感覚はあったが、それでも、今日という日を、まだ村の記憶を抱えたまま過ごせることに、静かな安堵もあった。
◇
その夜、境の樹越しの枠には、いつもより硬い声が並んでいた。
「メルヴィン様が来た、というのは……」
ミオの声が、心配そうに揺れた。
「ノアを守るためというより、駆け引きの一部、ということですよね」
「うん。でも、ガレンさんも、それだけじゃない気がする」
ノアがそう答えると、クドウの声が続いた。
「こっちからは、何もしてやれない。もどかしいが……お前が無事に戻ってくることだけを、祈るしかない」
「大丈夫」
ノアは、努めて明るく言った。
「一人で抱えてるわけじゃないから」
枠の向こうで、しばらく沈黙が続いた。それから、ヤナガセの声が、静かに響いた。
「無理はするな。倒れそうになったら、真っ先に、こちらに知らせろ」
「うん。約束する」
短いやり取りだったが、遠く離れた場所にいる仲間たちの声が、王都の夜の中で、確かな支えになっていた。
「フウタは、何か言ってなかった?」
ノアが尋ねると、ミオが、少し笑って答えた。
「今日は資料整理で研究室にこもりっぱなしです。でも、あなたのことを話すたびに、真っ先に心配してましたよ」
「そっか」
その一言だけで、遠く離れた場所の景色が、目に浮かぶようだった。決着はまだ、何もついていない。それでも、今日を越えられたことが、ノアにとっては、小さくない一歩だった。




