第62話 断れない召喚
書状の封蝋を割ったのは、翌朝、村長の家に村人たちが集まってからだった。
ノアは、ハンナの隣に座り、村長が紙面を読み上げるのを聞いていた。
「――教会本部の名において、薬師見習いノアを召喚する。同行者は保護者一名に限る。到着は、迎えの者と共に、十日後を目処とする」
集会所が、しんと静まり返った。
「十日後……」
誰かが、小さく呟いた。あまりにも早い。ルカが告げていた「ひと月」よりも、ずっと早い。
「保護者一名、というのは」
ハンナが、静かに問うた。村長は、書状の続きに目を落とした。
「名指しではないが……普通に考えれば、お前さんのことだろう、ハンナ」
ハンナは、しばらく黙っていた。それから、小さく頷いた。
「行くしかないね」
その声には、迷いがなかった。ノアは、その横顔を見つめながら、自分の胸の内側で何かが引き締まるのを感じていた。
◇
迎えの一行が到着するまでの十日間、村は、これまでにない慌ただしさに包まれた。
「あたしとダグで、村のことは何とかするって言ったの、本気だからね」
ティナが、荷造りを手伝いながら、きっぱりと言った。
「向こうで何かあったら、境の樹に来て、ソラに言伝てすればいいんだよね」
「うん。頼りにしてる」
ダグは、部屋の隅で、黙って革紐を編んでいた。旅の荷を縛るためのものらしい。不器用な手つきで、それでも丁寧に、一本一本を結んでいく。
「王都なんて、俺も行ったことねえ」
ぽつりと、ダグが言った。
「だから、余計なことは言えねえけど……」
「うん」
「無事に、帰ってこい」
短い言葉だったが、その分だけ、重みがあった。ノアは、頷く以外、何も言えなかった。
◇
出発の二日前、ガルドさんが、家まで訪ねてきた。手には、使い込まれた革で仕立てた、新しい肩掛け袋があった。
「王都までの道は、荒れてるところもある。これなら、多少ぶつけても、中のものは守られる」
「ありがとうございます」
「礼はいい。……お前が背負ってるもんが、何なのか、俺は詳しくは知らん。だが、大事なもんだってことぐらいは、分かる」
ガルドさんは、それだけ言うと、照れくさそうに背を向けて帰っていった。
入れ替わるように、エーラさんがやってきて、干した薬草と、日持ちのする焼き菓子の包みを、ハンナの手に押しつけた。
「道中、何があるか分からないからね。使わずに済むのが、一番だけど」
ハンナが、ふっと笑った。
「みんな、同じことを言うね」
「そういう村だからね、ここは」
エーラさんも、笑って答えた。ノアは、その二人のやり取りを見ながら、村を出るということが、こんなにも多くの手に支えられていることなのだと、改めて実感していた。
◇
出発の前夜、ノアは、ハンナと二人で、境の樹に向かった。
箱に触れると、いつものように、枠の向こうに声が集まった。
「ノア、聞きました。……王都に、行くんですね」
ソラの声は、いつもより、少し硬かった。
「うん。十日後には出発する」
「距離が、離れます」
ミオの声も続いた。
「大丈夫。今までみたいに、ちゃんと繋がるよ」
キョウジュの声が、静かに割って入った。
「距離と、繋がりの強さについては、こちらでも調べておく。何か変化があれば、すぐに伝える」
「お願いします」
クドウが、いつもよりゆっくりと言った。
「向こうでも、こっちでも、できることを、それぞれやろう。今までどおりに」
ノアは、その言葉に、少しだけ肩の力が抜けるのを感じた。一人で立ち向かうわけではない。それだけは、確かだった。
◇
会話を終え、箱を革袋にしまったあと、ハンナは、しばらく境の樹の幹に手を当てていた。
「ばあちゃん」
「……ノア」
ハンナは、幹から目を離さずに、言った。
「お前の母さんも、昔、よくここに来ていたんだよ」
ノアの心臓が、大きく跳ねた。
「母さんが」
「まだ、お前を産む前のことだ。理由は、あたしにも、はっきりとは分からない。ただ……この樹の前に立つと、ほっとする、と言っていた」
ハンナの声は、静かで、どこか遠くを見ているようだった。
「今まで、黙っていて悪かったね。話すべきかどうか、ずっと迷っていた」
「どうして、今、話してくれたの」
「王都に行けば、お前の母さんに関わることを、聞かれるかもしれない。……そのとき、何も知らないままじゃ、お前が困るだろう」
ノアは、幹に触れた自分の手を見つめた。母がここに立ち、同じ木肌に触れていたかもしれない。そう思うと、不思議な感覚が、胸の奥に広がった。
「他には」
「今夜は、これだけだ」
ハンナは、そう言って、話を切り上げた。だが、その口調には、まだ何かを抱えているような余韻があった。ノアは、それ以上、無理に聞き出そうとはしなかった。急いては、いけない話のような気がした。
◇
出発の朝、村の入り口には、教会の紋章を掲げた馬車が一台と、供の者が二人、静かに待っていた。
村人たちが、広場に集まっていた。誰も、大きな声を上げなかった。ただ、それぞれのやり方で、見送ろうとしていた。
「ノア」
村長が、肩に手を置いた。
「お前は、この村の子だ。何があっても、それは変わらない」
「はい」
ティナが、駆け寄ってきて、何も言わずに、荷袋の紐をきゅっと結び直した。照れくさそうに、それだけして、また下がった。
ダグは、少し離れた場所から、片手を上げただけだった。それで、十分だった。
ノアは、馬車に乗り込む前に、もう一度、森の方角を振り返った。境の樹は、朝の光の中で、いつもと変わらず静かに佇んでいた。
「行ってきます」
誰にともなく、そう呟いた。
馬車が動き出すと、村はゆっくりと遠ざかっていった。ハンナは、隣で、まっすぐ前を見つめていた。ノアも、同じ方向を見た。
これから向かう先に、何が待っているのか、まだ分からない。それでも、確かなことが一つだけあった。
村の屋根が、木々の向こうに小さくなっていく。ノアは、肩に掛けたガルドさんの革袋の重みを、そっと確かめた。中には、箱と、エーラさんの薬草の包みが、並んで収まっている。村の誰かの手が、必ずどこかに触れている。そう思うだけで、揺れる馬車の中でも、不思議と背筋が伸びた。
一人ではない。
そのことだけを胸に、ノアは、初めて見る道を進み始めた。




