第61話 広がる世界
ルカが去ってから、また幾日かが過ぎた。
畑の緑が、少しずつ色を濃くしていく。夏の終わりの気配が、風の匂いに混じり始めていた。何も起きない日々は、それだけでありがたいのだと、ノアは近頃、そう思うようになっていた。
「ぼうっとしてんな」
薬草籠を提げて歩いていると、ダグに背中を小突かれた。振り返ると、ダグは弓を担いだまま、いつもの仏頂面で立っていた。
「森、行くのか」
「うん。腹薬の草、もうすぐなくなるから」
「なら、途中まで一緒だ」
そう言って、ダグは何も聞かずに、ノアの隣を歩き始めた。三年前、井戸端で「出来損ない」と笑っていた少年と、いま並んで歩いているのが、同じ人間だとは、いまだに時々、信じられなくなる。
「……なあ」
しばらく歩いてから、ダグが、ぽつりと言った。
「お前が王都だか、教会だかに呼ばれても、いつでも帰ってこいよ。森は、逃げねえんだから」
ハンナの口癖と同じ言葉を、ダグの口から聞くとは思わなかった。ノアは、思わず笑ってしまった。
「……うん。ありがとう」
森の入り口で別れると、ダグは、片手を軽く上げて村のほうへ戻っていった。その広い背中を見送りながら、ノアは、大猪の一件や、境の樹への攻防を思い出していた。あのとき轡をつかんでくれた手も、いまこうして隣を歩いてくれる足も、全部、同じダグのものだった。
森の奥へ入ると、途中でティナにも会った。籠いっぱいの木苺を抱えて、額の汗を拭っている。
「あ、ノア。ちょうどいいや、味見してって」
差し出された木苺は、まだ少し酸っぱかった。それでも、ティナの屈託のない笑顔を見ていると、胸の奥のこわばりが、少しだけほどけていく気がした。
「なんかあったら、いつでも境の樹に来て、ソラに言伝てして。あたしとダグで、村のことは何とかするから」
「うん。頼りにしてる」
ティナは、照れくさそうに鼻を鳴らして、また籠を抱え直した。
◇
その夕方、ハンナの家の裏手で、ノアはハンナが何かを土に埋めているのを見つけた。
近づいて覗きこむと、それは、あの硝子の筒だった。ガレンが一度手に取り、疑いながらも見逃した、あちらの世界から渡った品。
「ばあちゃん、それ」
「もう、いいんだよ」
ハンナは、土を丁寧にかぶせながら、静かに言った。
「置いておいても、いつか誰かの目に留まる。目薬入れの噓も、そういつまでも通用するもんじゃない。……これでいい」
ノアは、その手元をじっと見つめた。長年連れ添った道具を手放すような、そんな寂しさが、ハンナの背中に滲んでいた。
「ばあちゃんは」
言いかけて、ノアは、口をつぐんだ。何かを聞きたい気がしたが、うまく言葉にならなかった。
ハンナは、顔を上げずに、ただ土を押し固め続けていた。何か言いたそうな沈黙が、二人の間に、しばらく漂っていた。
「……なんでもない」
結局、ノアは、そう言うだけにとどめた。ハンナも、それ以上は何も語らなかった。ただ、いつもより長く、埋めたばかりの土を見つめていた。
◇
その夜、ノアは境の樹まで足を運んだ。箱に触れると、いつもの声が枠の向こうから響いた。
「ノア、こんばんは」
ソラの声に、ミオやクドウの気配も、すぐに重なった。
「今日は、何も報告することがないんだ」
ノアが言うと、ミオが、ふふ、と笑った。
「それが一番いいことだよ。何もない日は、ちゃんと大事にしなきゃ」
「うん」
「向こうも、変わりないよ」
クドウの声が続いた。
「キョウジュは相変わらず書類仕事に追われてる。楓太は、休眠手順の見直しを何度も確認してる。使わずに済むのが一番だけどな」
しばらく、他愛のない話が続いた。畑の作物のこと、街での噂のこと、ソラが学んだ新しい言葉のこと。何でもない会話が、こんなにも胸をあたためるのだと、ノアは今更ながら実感していた。
「世界は、広いな」
ふと、ノアは呟いた。
「いろんな人がいて、いろんな思惑があって……怖いことも、たくさんある。でも」
「でも?」
ソラが、優しく促した。
「僕は、どこにいても、自分にできることをやるだけだ。それでいいんだと思う」
枠の向こうで、少しの間があった。それから、ソラが、静かに答えた。
「それが、ノアの強さです」
◇
会話を終えようとしたそのとき、ふいに、境の樹の幹全体が、これまでにない強さで発光した。
淡い光が、木漏れ日のように地面へ降り注ぐ。ノアは、思わず、後ずさった。
「これは……」
ソラの声が、珍しく、驚きを隠せずにいた。
「センサーの記録にない発光強度です。これまでの、どの反応とも違います」
「大丈夫なのか」
「危険な兆候は、いまのところ見られません。ですが……何かが、近づいている。そんな気がします」
光は、しばらく脈打つように強弱を繰り返してから、やがて、もとの静かな輝きへと戻っていった。ノアは、その場に立ち尽くしたまま、しばらく動けなかった。
◇
家に帰り着いたのは、夜も更けた頃だった。
戸口に近づいたとき、ノアは、暗がりに人影があることに気づいた。村長だった。手には、一通の書状が握られている。
「……ノア。たったいま、これが届いた」
村長の声は、硬かった。
「教会からだ。正式な召喚状だ」
ノアの心臓が、大きく鳴った。ルカが告げていた「ひと月」よりも、ずっと早い。
書状を受け取る手が、震えていた。境の樹の光と、この書状と——二つの出来事が、同じ夜に重なったことに、ノアは、言いようのない予感を覚えずにはいられなかった。
広い世界は、もう、待ってはくれない。
村長が去ったあと、ノアは、しばらく戸口に立ったまま、書状を握りしめていた。中身はまだ読んでいない。それでも、封蝋の重みだけで、これまでとは違う何かが始まることが、はっきりと分かった。
家の中では、ハンナが、灯りをつけたまま起きて待っていた。ノアの顔を見るなり、書状には目もくれず、ただ静かに言った。
「お帰り。……冷めないうちに、お食べ」
その、いつもと変わらない一言が、震えていた胸を、少しだけ落ち着かせてくれた。
明日から、また新しい道が始まる。
第三部、完。
領主とガレンの疑いに始まり、疫病の記憶が薄れる間もなく、今度は教会の目が村に向けられました。研究室では黒川教授の退職という新たな綱渡りもありましたが、それでも、ダグやティナ、ハンナ、そして研究室の仲間たちと積み重ねてきた日々が、ノアを支える土台になっていることを、この部を通して描けていたら嬉しいです。
ハンナが硝子の筒を土に埋める場面、書いていて一番苦しく、一番大事な場面でした。何かを言いかけて、それでも言えない——そんな沈黙も、ちゃんと物語の一部として残しておきたかったです。
ここまで読んでくださって、ありがとうございます。
評価をいただけると、本当に励みになります。
第四部では、いよいよ王都へ。ノアと世界の「謎」に、正面から迫っていきます。次でお会いしましょう。




