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異世界少年と謎の物体と研究室の仲間たち〜森で拾った箱の向こうは現代日本でした〜  作者: gachapin2223


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第59話 渡りきった綱

夜、村が寝静まったころ、ノアはこっそり家を出て、境の樹へ向かった。


御堂での出来事を、誰かに話さずにはいられなかった。革袋から箱を取り出し、指先で触れる。


「ミオ、いる?」


少し間があって、聞き慣れた声が答えた。


「いるよ。……ノア、声が硬い。何かあった?」


ノアは、水晶のこと、アルバンの言葉、村を出てはいけないと言われたことを、順を追って話した。話し終える頃には、枠の向こうに、キョウジュとクドウの気配も加わっていた。


「――測れないもの、か」


キョウジュの声が、低く唸った。


「気になる反応だ。だが、いまここで結論を急いでも仕方がない。何より、ノア。よく無事だった」


「うん」


ノアは、頷いた。それから、少しだけ、迷いながら聞いた。


「そっちは、大丈夫? 前に言ってた、十日っていうの、そろそろじゃ……」


枠の向こうで、束の間、沈黙があった。


「――ちょうど、今夜が山場なんだ」


答えたのは、クドウだった。


「キョウジュが大学を辞める、正式な手続きの、最後の一枚が動いてる。うまくいけば、これでキョウジュを縛るものは、何もなくなる。うまくいかなければ……まあ、そのときは、そのときだ」


軽い口調だったが、その奥に、隠しきれない緊張があるのを、ノアは感じ取った。


「僕、何もできないけど……祈ってる」


「それで、十分だよ」


ミオの声が、優しく答えた。


「終わったら、必ず伝える。今夜は、もう休んで」


枠の光が、ふっと落ち着いた。ノアは、しばらくそこに留まってから、境の樹に一礼して、家路についた。


◇


同じ夜、研究室では、美緒が、机の上に広げた書類を、何度目かの読み直しをしていた。


大学への最終報告書。黒川の退職手続きに添える、いちばん重要な一枚だった。


「本当に、この書き方で大丈夫?」


工藤が、画面越しに覗き込む。美緒は、ペン先で紙の一点を示した。


「接続を続けている事実は、書く。隠したら、あとで発覚したときが最悪だから。でも――相手側の詳しい情報は、書かない。『個人の研究資産として移管する』それだけ」


「監査官が、突っ込んでこないか」


「突っ込んでくるかもしれない。でも、黒川先生はもう大学の職員じゃなくなる。個人の私物を、大学が根掘り葉掘り調べる権限はない。……そこが、境目」


楓太が、部屋の隅から言った。


「際どいな」


「際どいよ。だから、これしかない」


美緒の声は、静かだったが、揺らいでいなかった。


◇


黒川が、部屋に入ってきたのは、日付が変わる少し前だった。


「大学の事務局から、返事が来た」


その一言に、部屋の空気が張りつめた。柳瀬も、いつの間にか隣に座っていた。


黒川の手にした封筒は、いつもの事務連絡と同じ、飾り気のない茶封筒だった。それだけに、かえって不気味だった。この十日、幾度となく想像してきた、最悪の展開が、頭をよぎる。突き返された報告書。追加調査の通告。個人研究への移管を認めない、という一文。


「……開けてくれ」


黒川が、封を切る。中の書類に、目を通す時間が、やけに長く感じられた。誰も、口を利かなかった。工藤の指が、机の端を、無意識に叩いていた。


黒川の眉が、わずかに動いた。それが、良い兆しなのか悪い兆しなのか、誰にも読み取れなかった。


「――受理された」


短い言葉だった。だが、その一言に、部屋じゅうの肩から、力が抜けるのが分かった。


「試作機は、黒川雄一朗の個人研究資産として登録。大学との雇用関係は、本日をもって終了。……接続そのものについては、一切、触れられていない」


工藤が、拳で軽く机を叩いた。


「よし……!」


柳瀬が、目を細めて笑った。


「渡りきったな。あの、いちばん細い綱を」


黒川は、しばらく、書類を見つめたまま、動かなかった。


「私は、もう、大学の教授ではない。ただの、一研究者だ」


「それで?」


美緒が、静かに尋ねた。


黒川は、顔を上げた。


「それで――続ける。誰の指示でもなく、自分たちの意志で。それだけのことだ」


◇


「今後、私を大学の看板で縛るものは、何もない」


黒川は、続けた。


「だからこそ、聞いておきたい。お前たちは、このまま、この研究に残るか。個人研究に籍を置く協力者として」


一瞬の間があった。だが、迷う者は、誰もいなかった。


「残ります」


美緒が、真っ先に答えた。


「俺も」


工藤が、続いた。


「僕も、もちろん」


楓太の声も、いつになく力強かった。


柳瀬は、腕を組んで、ただ静かに頷いた。それだけで、答えは十分だった。


黒川は、一人ひとりの顔を見て、それから、深く息を吐いた。


「……ありがとう」


それだけ言うと、黒川は、枠のほうへ向き直った。境の樹の向こうで、ノアが、まだ待っているはずだった。


◇


「ノア、聞こえるか」


「うん、聞こえる」


黒川の声は、いつもより、少しだけ、かすれていた。


「私は、大学を辞めた。正式に。だが――お前との繋がりは、切れていない。これからも、切れない」


ノアの喉の奥が、じん、と熱くなった。


「これで、私たちの繋がりは、誰にも切れない。約束する」


「……うん」


それだけしか、言えなかった。それだけで、十分だった。


枠の向こうから、美緒たちの声が、次々に重なった。おめでとう、よかった、これからもよろしく――そんな言葉が、境の樹の下に、静かに降り注いだ。


ノアは、しばらく、その声に包まれたまま、動けなかった。


胸の中で、ずっと張りつめていた何かが、少しずつ、ほどけていくのが分かった。


◇


家へ帰る道、夜風が、木々を静かに揺らしていた。


一つの綱を、渡りきった。研究室の危機は、去った。


けれど、ノアの心の隅には、まだ小さな棘が残っていた。アルバンの言葉。中央神殿への報告。村を出るなという命令。


こちら側の綱は、渡りきった。だが、あちら側の綱は――まだ、途中にある。


ノアは、夜空を見上げた。星は、いつもと同じ場所で、静かに瞬いていた。


明日から、また、あの言葉を待つ日々が始まる。


それでも、今夜だけは。


キョウジュの声が、まだ耳の奥に残っていた。これで、私たちの繋がりは、誰にも切れない。約束する。その言葉の重みを、ノアは、何度も、噛みしめるように思い返した。


一つの綱が、渡りきられた。ならば、もう一つの綱も、いつか、きっと。


そう思いながら、ノアは、家路を急いだ。


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