第59話 渡りきった綱
夜、村が寝静まったころ、ノアはこっそり家を出て、境の樹へ向かった。
御堂での出来事を、誰かに話さずにはいられなかった。革袋から箱を取り出し、指先で触れる。
「ミオ、いる?」
少し間があって、聞き慣れた声が答えた。
「いるよ。……ノア、声が硬い。何かあった?」
ノアは、水晶のこと、アルバンの言葉、村を出てはいけないと言われたことを、順を追って話した。話し終える頃には、枠の向こうに、キョウジュとクドウの気配も加わっていた。
「――測れないもの、か」
キョウジュの声が、低く唸った。
「気になる反応だ。だが、いまここで結論を急いでも仕方がない。何より、ノア。よく無事だった」
「うん」
ノアは、頷いた。それから、少しだけ、迷いながら聞いた。
「そっちは、大丈夫? 前に言ってた、十日っていうの、そろそろじゃ……」
枠の向こうで、束の間、沈黙があった。
「――ちょうど、今夜が山場なんだ」
答えたのは、クドウだった。
「キョウジュが大学を辞める、正式な手続きの、最後の一枚が動いてる。うまくいけば、これでキョウジュを縛るものは、何もなくなる。うまくいかなければ……まあ、そのときは、そのときだ」
軽い口調だったが、その奥に、隠しきれない緊張があるのを、ノアは感じ取った。
「僕、何もできないけど……祈ってる」
「それで、十分だよ」
ミオの声が、優しく答えた。
「終わったら、必ず伝える。今夜は、もう休んで」
枠の光が、ふっと落ち着いた。ノアは、しばらくそこに留まってから、境の樹に一礼して、家路についた。
◇
同じ夜、研究室では、美緒が、机の上に広げた書類を、何度目かの読み直しをしていた。
大学への最終報告書。黒川の退職手続きに添える、いちばん重要な一枚だった。
「本当に、この書き方で大丈夫?」
工藤が、画面越しに覗き込む。美緒は、ペン先で紙の一点を示した。
「接続を続けている事実は、書く。隠したら、あとで発覚したときが最悪だから。でも――相手側の詳しい情報は、書かない。『個人の研究資産として移管する』それだけ」
「監査官が、突っ込んでこないか」
「突っ込んでくるかもしれない。でも、黒川先生はもう大学の職員じゃなくなる。個人の私物を、大学が根掘り葉掘り調べる権限はない。……そこが、境目」
楓太が、部屋の隅から言った。
「際どいな」
「際どいよ。だから、これしかない」
美緒の声は、静かだったが、揺らいでいなかった。
◇
黒川が、部屋に入ってきたのは、日付が変わる少し前だった。
「大学の事務局から、返事が来た」
その一言に、部屋の空気が張りつめた。柳瀬も、いつの間にか隣に座っていた。
黒川の手にした封筒は、いつもの事務連絡と同じ、飾り気のない茶封筒だった。それだけに、かえって不気味だった。この十日、幾度となく想像してきた、最悪の展開が、頭をよぎる。突き返された報告書。追加調査の通告。個人研究への移管を認めない、という一文。
「……開けてくれ」
黒川が、封を切る。中の書類に、目を通す時間が、やけに長く感じられた。誰も、口を利かなかった。工藤の指が、机の端を、無意識に叩いていた。
黒川の眉が、わずかに動いた。それが、良い兆しなのか悪い兆しなのか、誰にも読み取れなかった。
「――受理された」
短い言葉だった。だが、その一言に、部屋じゅうの肩から、力が抜けるのが分かった。
「試作機は、黒川雄一朗の個人研究資産として登録。大学との雇用関係は、本日をもって終了。……接続そのものについては、一切、触れられていない」
工藤が、拳で軽く机を叩いた。
「よし……!」
柳瀬が、目を細めて笑った。
「渡りきったな。あの、いちばん細い綱を」
黒川は、しばらく、書類を見つめたまま、動かなかった。
「私は、もう、大学の教授ではない。ただの、一研究者だ」
「それで?」
美緒が、静かに尋ねた。
黒川は、顔を上げた。
「それで――続ける。誰の指示でもなく、自分たちの意志で。それだけのことだ」
◇
「今後、私を大学の看板で縛るものは、何もない」
黒川は、続けた。
「だからこそ、聞いておきたい。お前たちは、このまま、この研究に残るか。個人研究に籍を置く協力者として」
一瞬の間があった。だが、迷う者は、誰もいなかった。
「残ります」
美緒が、真っ先に答えた。
「俺も」
工藤が、続いた。
「僕も、もちろん」
楓太の声も、いつになく力強かった。
柳瀬は、腕を組んで、ただ静かに頷いた。それだけで、答えは十分だった。
黒川は、一人ひとりの顔を見て、それから、深く息を吐いた。
「……ありがとう」
それだけ言うと、黒川は、枠のほうへ向き直った。境の樹の向こうで、ノアが、まだ待っているはずだった。
◇
「ノア、聞こえるか」
「うん、聞こえる」
黒川の声は、いつもより、少しだけ、かすれていた。
「私は、大学を辞めた。正式に。だが――お前との繋がりは、切れていない。これからも、切れない」
ノアの喉の奥が、じん、と熱くなった。
「これで、私たちの繋がりは、誰にも切れない。約束する」
「……うん」
それだけしか、言えなかった。それだけで、十分だった。
枠の向こうから、美緒たちの声が、次々に重なった。おめでとう、よかった、これからもよろしく――そんな言葉が、境の樹の下に、静かに降り注いだ。
ノアは、しばらく、その声に包まれたまま、動けなかった。
胸の中で、ずっと張りつめていた何かが、少しずつ、ほどけていくのが分かった。
◇
家へ帰る道、夜風が、木々を静かに揺らしていた。
一つの綱を、渡りきった。研究室の危機は、去った。
けれど、ノアの心の隅には、まだ小さな棘が残っていた。アルバンの言葉。中央神殿への報告。村を出るなという命令。
こちら側の綱は、渡りきった。だが、あちら側の綱は――まだ、途中にある。
ノアは、夜空を見上げた。星は、いつもと同じ場所で、静かに瞬いていた。
明日から、また、あの言葉を待つ日々が始まる。
それでも、今夜だけは。
キョウジュの声が、まだ耳の奥に残っていた。これで、私たちの繋がりは、誰にも切れない。約束する。その言葉の重みを、ノアは、何度も、噛みしめるように思い返した。
一つの綱が、渡りきられた。ならば、もう一つの綱も、いつか、きっと。
そう思いながら、ノアは、家路を急いだ。




