第58話 測れないもの
窓の外が白みはじめても、ノアはほとんど眠れないままだった。
隣の寝床で、ハンナが身を起こす気配がした。
「起きてたのかい」
「うん」
ハンナは、何も聞かずに、ノアの頭をひと撫でした。皺だらけの手のひらが、いつもより温かく感じられた。
「行こうか。ばあちゃんも、一緒に行くから」
◇
御堂の前には、もう村人たちが集まっていた。誰も大きな声を出さない。ただ、遠巻きに、扉の開くのを待っている。
ティナとダグが、人垣の隅からノアを見つけて、駆け寄ってきた。
「大丈夫? 眠れた?」
「あんまり」
正直に答えると、ダグが、ノアの肩に、無言でぽんと手を置いた。それだけで、少しだけ、息がしやすくなった。
「終わったら、すぐ教えろよ」
「うん」
村長が、御堂の扉を開ける。中には、すでにアルバンと供の二人が待っていた。
扉が閉まる前、ノアは一度だけ振り返った。人垣の向こうに、ティナとダグの心配そうな顔が見えた。ハンナが、その背中に、そっと手を添えてくれた。それだけで、少しだけ、足が動くようになった。
◇
御堂の中央に、台座があった。その上に、透きとおった水晶が据えられている。三年前、教会の広間で見たものより、ずっと大きく、ずっと澄んでいた。
三年前のことを、ノアは、まざまざと思い出していた。隣に並んだ子どもたちの番では、水晶が赤く、青く、金色に輝いた。僕の番だけ、何も起きなかった。神官さまの、困ったような、優しい声。
――きみの魔力は、ほとんど、ないようだ。
「手を、乗せなさい」
アルバンの声に、ノアは我に返った。震えそうになる手を、意志の力で押さえつけながら、水晶の上にそっと乗せる。
冷たい感触が、指先から伝わった。
御堂の中が、しんと静まりかえる。誰も、息をする音さえ立てなかった。
◇
最初は、何も起きなかった。
三年前と、同じだ。ノアは、そう思った。ほとんど、ないようだ。あの声が、また聞こえる気がした。
だが、次の瞬間。
水晶の奥で、何かが、揺らいだ。
赤でも、青でも、金色でもない。名前のつけようのない、淡い光だった。強くなったり、弱くなったりを、まるで呼吸のように繰り返している。
「――なっ」
供の一人が、小さく声を漏らした。
水晶の表面に、細い光の筋が走る。それは、ノアには、見覚えのある動き方だった。境の樹の根元で、初めて箱に触れたときの、あの光の走り方に、どこか似ていた。
ノアの心臓が、跳ねた。まさか、これが――。
「静まれ」
アルバンの声が、鋭く響いた。供の二人が、口をつぐむ。だが、その目に浮かんだ動揺は、隠しきれていなかった。
水晶の光は、ふっと膨らみ、それからゆっくりと、萎むように収まっていった。もとの、ただの透明な石に戻る。
御堂の中に、長い沈黙が落ちた。
◇
「……これは、何だ」
アルバンが、初めて、感情らしいものを声ににじませた。呟くような、独り言だった。
供の一人が、震える声で言った。
「アルバン様。この反応は、記録にございますか」
「ない」
短く、アルバンは答えた。
「ゼロでもない。かといって、通常のいかなる属性の光り方でもない。……このような反応は、私も、初めて見た」
水晶から手を離すよう促され、ノアは、そっと手を引いた。指先が、まだ冷たいままだった。
「何を、感じた」
アルバンが、ノアに向き直る。
「お前は、水晶に触れたとき、何を感じた」
ノアは、正直に答えるしかなかった。
「……あたたかい、気がしました。あと、少しだけ、耳の奥で、音が聞こえたような」
「音」
「上手く言えません。……森の、あの樹の近くにいるときみたいな」
言ってしまってから、しまった、と思った。だが、アルバンは、それを別段、気にとめた様子もなかった。教会の男の関心は、森の秘密にはない。あくまで、ノアという少年、その一点にだけ向いていた。
「……ふむ」
アルバンは、腕を組み、しばらく黙り込んだ。
御堂の外で、風が、木立を鳴らす音がした。
◇
「三年前の鑑定は、間違っていたわけではないだろう」
やがて、アルバンが、静かに口を開いた。
「お前の魔力は、確かに、通常の意味では、ほとんど無いに等しい。だが――今の反応は、それとは、また別のものだ」
ハンナが、たまらず、口を挟んだ。
「別のもの、とは……この子に、何か、悪いものが取り憑いているとでも」
「そうは言っていない」
アルバンは、首を振った。
「悪いとも、良いとも、私には、まだ判じられん。ただ――測れないものが、確かに、この子の中にはある。それだけは、確かだ」
御堂の中に、また沈黙が落ちた。ノアは、自分の手のひらを、じっと見つめた。何の変哲もない、いつもの手だった。それなのに、そこに、自分でも知らない何かが眠っているのだと言われて、恐ろしさと、名づけようのない予感とが、同時に胸の中でせめぎ合った。
母のことが、また、頭をよぎった。もし、あの人にも、同じ何かがあったのだとしたら――。
考えかけて、ノアは、その先を振り払った。今は、まだ、わからない。
アルバンが、供に何ごとかを短く指示し、それから、ノアを見た。細い目に浮かんでいたのは、もう、値踏みするような無関心さではなかった。もっと深い、警戒に近い色だった。
「お前は――ただの出来損ないでは、ないかもしれん」
それは、褒め言葉には、少しも聞こえなかった。
「この結果は、中央神殿へ報告する。追って、沙汰があるだろう。それまで、この村を出ぬように」
アルバンは、それだけ告げると、供を連れて御堂を出ていった。
◇
御堂の外で待っていたティナとダグが、真っ先に駆け寄ってきた。
「どうだった!?」
ノアは、すぐには答えられなかった。ハンナが、代わりに、短く言った。
「……よくわからない結果が出た、とだけ」
村長の顔が、曇った。だが、それ以上、誰も何も言わなかった。
日が、少しずつ高くなっていく。御堂の屋根の向こう、森の梢が、風に静かに揺れていた。境の樹の眠る方角から、その音は、いつまでも聞こえていた。
ノアは、自分の手のひらを、もう一度、開いて見た。
測れないもの。その言葉だけが、いつまでも、耳の奥に残っていた。




