第56話 狙われる理由
ガレンが村を去った翌日、空はよく晴れていた。
畑の作物は、いつもどおり朝露を光らせていた。鶏の声も、井戸端のやり取りも、少しずつ、いつもの調子を取り戻しつつあった。だが、ノアの中では、昨日の緊張が、まだ細く尾を引いていた。
膝の震えは、もう治まっている。それでも、ガレンの最後の言葉だけが、耳の奥に張りついて離れなかった。
――この村へ来るたび、いちばん先に駆けつけてくるのが、決まってお前だ。
薬草籠を提げて広場へ出ると、ティナが小走りに寄ってきた。いつもより、顔色がよくない。
「聞いたよ。昨日、大猪が出たって」
「うん。危ないところだった」
「それだけじゃないの」
ティナは、声を落とした。
「さっき、宿に泊まってる行商人が、別の客と話してるのを聞いちゃって。街のほうじゃもう、村の薬師のことが、教会の耳にも入ってるかもしれないって」
心臓が、どくりと跳ねた。
「教会……?」
「うん。鑑定の儀をやってるとこ。……なんで、そんなところまで」
ノアには、答えられなかった。
◇
その日の午後、ティナが行商人の元へ様子を見に行くと言い出した。
「あたし一人のほうが、変に思われないから。ノアは家にいて」
止める間もなく、ティナは駆けていった。
半刻ほどして戻ってきたティナは、少し青ざめた顔をしていた。
「危なかった。世間話のふりして聞いてたら、途中で行商人が、こっちを見て『お前、この村の子か』って聞いてきて」
「それで……?」
「とっさに、『違う、隣村から親戚に会いに来てるだけ』って言っといた。信じたかどうかは、わかんないけど」
ティナは、深く息を吐いた。
「行商人自身は、この村が噂の出所だとは、まだ気づいてない。噂は噂で、尾ひれがついて、遠くまで一人歩きしてるだけみたい。街の宿場、街道の詰め所、そのまた向こうの町――そうやって、話が話を呼んで広がってる感じだった」
小さな安堵だった。だが、根本の不安は消えなかった。噂は、もう、ノアの手の届かないところで、勝手に育っている。
「教会のことも、何か言ってた?」
「詳しくは。ただ、『鑑定で外れた子どもが、街で病人を治したらしい』って話が、巡礼の連中の間でも、ちょっとした噂話になってるって。それだけ」
ノアは、黙って、その言葉を胸の中で転がした。
◇
その夜、ノアは、こっそり家を出て境の樹へ向かった。革袋の中から箱を取り出す。指先が触れると、いつもの声が響いた。
「ノア? こんな時間に、どうしましたか」
ソラの声に、ノアは、堪えていたものが少しゆるむのを感じた。
「聞きたいことがあって。……ミオ、いる?」
少し間があって、聞き慣れた声が答えた。
「いるよ。ノア、大丈夫? 声、少し震えてる」
ノアは、昨日の出来事と、今日ティナから聞いた話を、順を追って話した。話し終える頃には、キョウジュとクドウの声も、枠の向こうから加わっていた。
「――なるほどな」
クドウの声が、低く唸った。
「噂ってのは、水と同じだ。堰き止めても、隙間から漏れる。しかも、一度広がった噂は、誰にも止められない。行商人、巡礼、街道の詰め所――人が動くところ、噂も一緒に動く」
「教会が、なんで薬師なんかを気にするの」
ノアが聞くと、少し間を置いて、ヤナガセの声が答えた。
「魔力の量を測る儀式を、教会が司っているんだろう。だとしたら――魔力がほとんどないはずの子どもが、奇跡のようなことをする。それは、教会にとって、都合の悪い話に聞こえるかもしれない」
「都合が、悪い……?」
「特別な力を持つ者が、利用されたり、遠ざけられたりするのは、ノアのいる場所だけの話じゃない。こっち側の世界でも、昔から、同じようなことが、形を変えて繰り返されてきた」
ヤナガセの声は、静かだった。だからこそ、重かった。
ノアは、しばらく、何も言えなかった。喉の奥に、言葉にならないものが詰まっていた。
「……僕は」
やっと、声にした。
「僕は、ただ、村を守りたいだけなのに」
誰も、すぐには答えなかった。枠の向こうで、小さな沈黙が続いた。
やがて、ミオの声が、いつもよりゆっくりと響いた。
「その気持ちは、間違ってないよ。守りたいって思うことは、悪いことじゃない」
「でも――」
「でもね、ノア。世界が広くなるほど、守りたいものを、一人だけで抱えなくてよくなる。あたしたちがいる。ハンナさんも、ティナも、ダグも、村長さんも」
ソラの声が、続いた。
「ノアは、まだ気づいていないかもしれません。でも、この一年で、ノアの周りに、味方はずっと増えました。狙う手が増えたぶんだけ、守る手も、同じだけ増えているはずです」
その言葉が、こわばっていた胸の奥に、少しずつ染み込んでいった。
キョウジュの声が、最後に、静かに言った。
「大きな流れは、私たちにも、まだ見えない部分がある。だが――どんな流れが来ても、この繋がりだけは、切らせない。それだけは、約束できる」
ノアは、暗闇の中で、小さく頷いた。誰にも見えないとわかっていても、頷かずにはいられなかった。
◇
家へ戻る道すがら、夜風が、木々をさらさらと鳴らしていた。胸の中の不安は、消えたわけではない。だが、さっきよりも、少しだけ軽くなっていた。
一人で抱えなくていい。その一言が、今のノアには、何よりの支えだった。
家に戻ると、ハンナは、もう眠っていた。ノアは、音を立てないよう、そっと寝床に潜り込んだ。天井の木目を見つめながら、今夜聞いた言葉を、もう一度、頭の中でなぞる。
守る手は、狙う手と同じだけ増えている。
そう信じられるなら、少しは、眠れる気がした。
◇
翌朝、村の入り口で騒ぎが起きたのは、それから間もなくのことだった。
「おい、見ろよ、あれ……」
街道の向こうから、これまで見たことのない紋章を掲げた一行が、ゆっくりと近づいてくる。ガレンの馬でも、領主の使いの旗でもなかった。
白地に、金の輪と、天を指す剣を重ねた紋章。歩みは遅く、静かで、それがかえって、不気味だった。
村長の顔から、みるみる血の気が引いていくのを、ノアは見た。
「……教会の、印だ」




