第55話 境へ駆ける
本日の掲載が遅くなり申し訳ありません。
三日が、静かに過ぎた。
畑の実りも、井戸端の話し声も、いつもと変わらないように見えた。だが村の空気の底には、細い糸のような緊張が、まだ張りつめたままだった。
ノアは、毎朝、日の出前に境の樹まで足を運んだ。箱の様子を確かめ、根の陰に隠した革袋に乱れがないか、そっと指で確かめる。それから、何食わぬ顔で薬草籠を提げて、家へ戻る。それが、この三日の日課になっていた。
ハンナは、その日課について、何も聞かなかった。ただ、朝、出ていくノアの背中に、いつもより長く目を向けるだけだった。
「気をつけて行きな」
「うん」
「森は、逃げやしないんだから。急がなくていいんだよ」
ばあちゃんの言葉に、ノアは頷いた。頷きながら、心の中では、少しも急がずにいられなかった。
村のほうでも、この三日で、何かが変わっていた。井戸端の噂話が、いつもより少ない。子どもたちの遊ぶ声も、街道に近い場所では、大人がそっと呼び戻すようになっていた。誰も口には出さないが、村じゅうが、次の蹄の音を待っている。そんな気配だった。
薬草籠を提げて広場を横切ったとき、ティナが駆け寄ってきた。
「今日も森?」
「うん」
「……気をつけてよ。あの人、まだこの辺にいるかもしれないって、宿に泊まった行商人が言ってた。街道の宿場で、馬の手入れをさせてたって」
ティナの声には、いつもの笑いがなかった。ノアは、頷くことしかできなかった。
四日目の朝、その日課は、途中で断ち切られた。
「ノア!」
駆けてきたのは、ダグだった。息が上がっている。
「街道に、また馬だ。三頭……いや、今度は二頭。速い」
心臓が、どくりと跳ねた。
「ガレンか」
「たぶんな。だが、様子が違う」
ダグの声が、いつもより硬かった。
「今度は、先触れも寄越さねえ。まっすぐこっちへ来てる」
◇
村の入り口に、ガレンが姿を見せたのは、それから半刻も経たないうちだった。馬を降りる仕草に、前のような余裕はなかった。懐から取り出したのは、封蝋の押された一枚の書状だった。
村長が、広場でそれを受け取り、目を通す。眉が、わずかに動いた。
「……森の資源調査、でございますか」
「読んでのとおりだ」
ガレンは、外套の裾も払わずに言った。
「領主様の御領地内の森は、木材も獣も、すべて台帳に載る決まりだ。だが、この村の裏手の森だけは、いまだかつて一度も調べが入っていない。妙な話だとは思わんか」
村長の顔から、笑みが消えた。
「代々、みだりに立ち入らぬ約束の森でございます。祟りがあると、古くから」
「祟りより、書状のほうが重い」
ガレンは、静かに、しかしにべもなく言い切った。
「案内など要らん。私と、この二人で見て回るだけだ。半刻もあれば済む」
村長が、なおも何か言いかけて、言葉に詰まった。ノアの喉が、からからに乾いた。
半刻。境の樹まで、大人の足でも四半刻はかかる。だが、抜け道を知っていれば――。
ノアは、村長の背後から、そっと人垣を離れた。振り返らずに、駆けた。
◇
森へ踏み込むと、ノアは迷わず、けもの道でもない、木の根の隙間だけを縫う細道を選んだ。ダグと二人、夏の間に薬草を探して何十回と通った、村の誰も知らない近道だった。
息が切れる。下生えの棘が、腕をかすめる。それでも足を止めなかった。
頭の中では、村長がガレンを引き止めている時間を数えていた。あとどれだけ稼げるか。あとどれだけ、走れば間に合うか。
この道は、ダグと二人で見つけた。誰にも教えていない。だからこそ、いま、この道が、ノアの持てる中でいちばん確かな武器だった。魔法も、力もない。だが、この森のどこに何があるか、どの根が張り出し、どの茂みが隠れ場所になるか――それだけは、誰よりも知っている。
境の樹が見えたとき、ノアは、木の根元に膝をついた。隠した箱を包む革袋を引き出す。震える指で、さらに深く、根の裂け目の奥へと押し込んだ。上から、去年の落ち葉と、湿った土を、両手ですくってかぶせる。
最後に、抱えられるだけの大きさの石をひとつ、転がして重ねた。ただの石に見えるように。
遠くで、下生えを踏む足音が聞こえた。
ノアは、隣の茂みへ身を沈めた。心臓の音が、自分の耳にまで響いていた。
◇
ガレンと、供の二人が、木立の間から現れた。
境の樹は、大人が三人がかりでも抱えきれないほどの太い幹を持つ、この森でいちばん古い木だった。ガレンは、その根元に立ち、しばらく無言で見上げた。
「……大きいな」
呟くように言い、幹に手を触れる。ノアは、息を止めた。
供の一人が、足元の石を、何気なく蹴った。ちょうど、ノアが埋めた場所のすぐ横だった。
土が、少し崩れる。革袋の端が、わずかに覗いた。
「おい、これは……」
供の男の声に、ガレンが振り向く。ノアの指が、無意識に地面をつかんだ。
そのとき、森の奥で、けたたましい鳥の羽音が上がった。何十羽もの群れが、一斉に飛び立つ音だった。
「な、なんだ!?」
供の男が、びくりと跳び上がる。遠くで、ガレンの馬が嘶いた。
木立の陰から、ダグが走り出てきたのは、その直後だった。
「大猪だ! 昨日のやつが、まだこの奥にいる! 早く戻ってくれ!」
叫び声には、噓のない必死さがあった。供の男は、覗いていた革袋どころではなく、腰の得物に手をかけて後ずさる。
ガレンだけが、その場に残って、もう一度、境の樹を見上げた。細い目が、幹の奥、枝の重なりの向こうを探るように動く。
「……行くぞ」
やがて、そう言って踵を返した。革袋の端は、崩れた土の陰に紛れたまま、誰の目にも留まらなかった。
◇
森を出たところで、ガレンは、ふいに足を止めた。
木陰から遅れて駆けてきた、ノアの姿を見つけたのだ。
肩で息をし、額に汗を浮かべたノアと、目が合う。
「……薬師見習い」
ガレンの声は、静かだった。
「ずいぶんと、息が上がっているな。どこから、駆けてきた?」
答えられなかった。喉が、貼りついたように動かない。
ガレンは、それ以上、追及しなかった。ただ、ノアの顔を、値踏みするように、長く見つめただけだった。
「……森は、豊かだ。大猪もいる、鳥も多い。だが」
馬に乗り、手綱を握る。
「豊かな森ほど、何かを隠すには、都合がいい」
そこで、ひと呼吸だけ、間を置いた。
「不思議なものだな。この村へ来るたび、いちばん先に駆けつけてくるのが、決まってお前だ」
ノアは、答えなかった。答えられなかった。
ガレンは、それ以上は何も言わず、馬の腹を軽く蹴った。蹄の音が、遠ざかっていく。ノアは、その背中が見えなくなるまで、その場を動けなかった。
膝が、震えていた。それでも、境の樹は、守られた。
今日のところは。
◇
その夜、ハンナの家の炉端で、ノアは、昼間のことを話した。抜け道を駆けたことも、革袋の端が覗きかけたことも、鳥の群れが飛び立った、あの一瞬のことも。
ハンナは、黙って聞き終えると、皺だらけの手で、ノアの頭を、一度だけ撫でた。
「よく、守ったね」
それだけだった。褒め言葉にしては、あまりに短い。だが、その手のひらの温もりが、ノアの中に残っていた強張りを、少しずつ、ほどいていった。
窓の外で、風が、木々を静かに鳴らしていた。境の樹の眠る方角から、その音は、いつまでも聞こえていた。




