第54話 森は語らない
朝もやの残る広場に、蹄の音が近づいてきた。
ノアは、井戸の陰から、それを見ていた。三頭の馬。先頭の男の、仕立てのいい外套に見覚えがある。街で、幾度も自分の言葉尻をつかまえようとした、あの目。
ガレンだった。
胸の奥が、冷たく沈んだ。来る、とは聞いていた。ソラが街道で捉え、あと一日だと告げていた。それでも、いざ本物の蹄の音を聞くと、足元が薄氷になったようだった。
「これは、わざわざ辺境まで。ご苦労なことでございます」
いつのまにか、村長が広場の真ん中に立っていた。あわてた様子は、どこにもない。こういう相手の前でこそ、あの人は落ち着き払う。
「領主様の御領地だ」
ガレンは馬を下り、外套の裾を払った。
「村の実り、民の暮らし向き。見て回るのも、私の務めでね。ついでに──評判の薬師見習いとやらの顔も、もう一度、拝んでおきたい」
視線が、井戸のほうへ流れた。ノアは、とっさに水桶へ手を伸ばした。ただ水を汲みに来た子どものように。
心臓が、耳の奥で鳴っていた。
◇
ガレンは、村をゆっくりと歩いた。
畑を見て、家の造りを見て、行き合う村人に、世間話のような顔で言葉をかけていく。だがノアには分かった。あれは世間話ではない。網だ。細い糸を、村じゅうに張りめぐらせている。
「豊かな村だ。医者もおらぬ辺境にしては、ずいぶんと人が達者に見える」
そう言って、ガレンは、薪を割っていた老人の手を止めさせた。
「去年、悪い病が流行ったと聞いたが。ずいぶんと、死人が出なかったそうだな。誰のおかげかね」
「ああ、それは、ノアが──」
老人の口が、うっかり動いた。
「森の薬で、みんなを。あの子はよう、朝も晩も森へ入って──」
森。
ノアの背筋が凍った。朝も晩も森へ、というその一言が、まっすぐ境の樹を指してしまう。
「──あらあら、そんな昔話!」
割って入ったのは、ティナだった。空の籠を抱えて、笑いながら老人の肩を叩く。
「じいさま、また話を盛って。ノアが森で採るのは、腹薬の草だけよ。ねえ? そんなに毎日入ってたら、とっくに熊に食われてるわ」
からりと笑って、ティナは老人の袖を引き、薪の山のほうへ連れていってしまう。「それより、この薪、宿に分けてよ」──よくしゃべる娘の声にまぎれて、森という言葉は、あっけなく流れていった。
ノアは、そっと息を吐いた。ティナの背中が、いつもより、ずっと大きく見えた。
◇
ハンナの家に、ガレンは足を踏み入れた。
天井から吊るされた無数の乾いた草。棚に並ぶ壺と、すり鉢の匂い。ガレンは物珍しそうに首をめぐらせ、乾いた草束を一つ、手に取った。
「たいした蓄えだ。これだけの薬草を、どこで学んだ? 辺境の婆さまが」
「昔、南の港街でね」
ハンナは、すり鉢の手も止めずに答えた。
「船乗り相手の薬師のもとで、下働きをしておりました。海の向こうの草も、ずいぶん見ましたよ。もう、みんな土の下の話だけれど」
ガレンの指が、草束を置き、棚の奥へと伸びた。乾いた葉の陰から、何かをつまみ上げる。
透き通った、指ほどの小さな筒だった。
ノアの喉が、ひくりと鳴った。硝子だ。それも、村のどんな器より薄く、澄んでいる。あちらの世界から、隙間を抜けて渡ってきた、薬を分けるための小さな筒。ここにあってはならないものが、いま、ガレンの指の間で、朝の光をはじいていた。
「これは、見慣れんな」
ガレンの目が、細くなった。
「こんなに澄んだ硝子は、街の商人でも、そう扱わん。どこで手に入れた?」
部屋の空気が、張りつめた。ノアは動けなかった。嘘を、と思っても、口が乾いて言葉が出ない。
そのとき、ハンナが、すり鉢から顔を上げた。
「ああ、それかい」
なんでもない声だった。皺だらけの手が、無造作に伸びて、ガレンの指からその筒を、ひょいと取り上げる。
「港街の硝子売りが、置いていった古手さ。目薬を垂らすのに、ちょうどよくてね」
そう言うと、ハンナはその筒に、すり鉢の煎じ汁をひとすくい、無造作に注いでみせた。まるで、ただの匙のように。それから、こともなげにガレンの手のひらへ押し戻す。
「珍しいものかい? なんなら、持っておいきなさるといい。年寄りには、もう目も遠くて、使いやしないんだから」
差し出された筒を前に、ガレンの手が、宙で止まった。
隠すのではなく、くれてやる。その一手が、ガレンの疑いの矛先を、ふっと鈍らせたのが、ノアにも分かった。本当に隠したいものを、人は、こんなに気安く手放しはしない。
「……いや」
ガレンは、筒を棚に戻した。
「年寄りの目薬を、取り上げるほど落ちぶれてはいない」
ハンナは、ひひ、と笑って、また、すり鉢を挽きはじめた。
ノアは、戸口の柱を、そっと握りしめた。手のひらに、じっとりと汗をかいていた。──ばあちゃん。心の中で、何度もそう呼んだ。
◇
昼を過ぎて、ガレンは、森を見たいと言い出した。
「薬草の採れる森だ。少しばかり、案内してもらおうか」
先に立ったのは、ダグだった。
「なら、俺が。狩人の息子だ、この森は誰より知ってる」
ダグは、ガレンを森のへりに沿って歩かせた。腹薬の草の生える窪地、木苺の茂み──害のない場所ばかりを、いかにも詳しげに指さしていく。だがガレンの足は、少しずつ、木々の深いほう、境の樹のある奥へと向きたがった。
「その奥は?」
ガレンが、深い木立の暗がりを指した。ノアの心臓が、跳ねた。あの方角だ。
「ああ、そっちは──」
ダグが言いかけて、ふいに、片手を上げてガレンを制した。地面に膝をつき、土の匂いを嗅ぐ。荒く掘り返された地面と、太い蹄の跡。
「大猪だ。しかも、新しい」
声が、低くなった。芝居ではない。ダグの目は、本気で鋭かった。
「昨日の今日で、まだこのへんにいる。手負いだと、馬でも危ねえ。あんた、あの牙を見たことは?」
そのとき、奥の茂みが、ざあっと大きく揺れた。
黒い影が、木々の間を横切る。ガレンの馬が、けたたましくいなないて後ずさった。手綱が、ぴんと張る。
「──引くぞ! こっちだ!」
ダグが、ガレンの馬の轡をつかみ、来た道へと強引に押し戻した。ガレンも、さすがに顔色を変えて、後ろへ馬を回す。木立の奥が、遠ざかっていく。境の樹の眠る方角が、暗い枝葉の向こうへ、また隠れていった。
森のへりまで戻って、ダグはようやく、轡から手を離した。
「……悪いな。この時季の森は、気まぐれでね」
肩で息をしながら、ダグは、けろりとそう言った。ノアは、木陰から、その広い背中を見ていた。あいつが轡をつかんだ、あの一瞬。境の樹への道が、確かに閉じたのだ。
胸の奥から、ようやく、詰めていた息が、細く漏れた。
◇
日が傾き、ガレンは馬上の人となった。
決定的なものは、何ひとつ、この男の手には残らなかった。硝子の筒も、森の道も、村人の口も。ノアは、そのはずだと、自分に言い聞かせた。
だが、村を出ようとして、ガレンは、ふと馬を止めた。
手綱を引いたまま、ゆっくりと首をめぐらせる。その視線が向いた先は、村でも、ノアでもなかった。
暗く沈みはじめた、森──境の樹の、眠る方角だった。
しばらく、ガレンは、黙ってそこを見つめていた。徴税官の、あの細い目で。何もかもを、値踏みするように。
やがて、独り言のように、静かに言った。
「あの森には、何があるのかな」
答える者は、誰もいなかった。
森は、ただ黙って、暮れていくだけだった。




