第53話 眠らせない灯
研究室の窓の外は、もう夜だった。
美緒は、机に積まれた書類の山を、ぼんやりと眺めていた。ここ数日、この部屋の空気は、二重の重さで沈んでいる。ひとつは、大学の監査。もうひとつは、遠い世界の、あの子の村へ迫る影。どちらも、こちらから手を伸ばして払える種類のものではなかった。
黒川教授の退職手続きは、いよいよ大詰めを迎えていた。机の端には、判をひとつ押すたびに増えていく確認書の束がある。長く身を置いた場所から籍を抜くというのは、こんなにも紙と、こんなにも頭を下げる相手を要するものなのかと、美緒は改めて思い知らされていた。
「事務方は、来週にも最終の照合に入るそうだ」
コートも脱がずに戻ってきた黒川が、椅子に腰を下ろしながら言った。声は、いつもどおり静かだった。
「照合、というと」
「研究費で購入した機材の、棚卸しだよ。ひとつ残らず、番号を突き合わせる」
美緒は、部屋の隅に目をやった。そこには、あの試作機とつながる端末が、いくつものケーブルを従えて据えられている。番号のない、どの帳簿にも載っていない機材が。
「それって……」
「見つかれば、説明を求められる。正式に籍を抜くまでの、この十日ほどが」
黒川は、そこで小さく息をついた。
「いちばん、細い綱の上だ」
◇
「だから、準備しておくべきだと言ってるんです」
工藤の声が、部屋の奥から響いた。手元では、接続系統の図面と、見慣れないスケジュール表が広げられている。
「最悪の場合、接続を一時的に隠す。休眠させる準備だけは、いま整えておく」
「休眠……」
楓太が、のぞきこんで眉を寄せた。
「それって、ソラを止めて、ノアと話せなくするってことですよね」
「痕跡を最小にするには、それがいちばん確実だ」
工藤は、手を止めずに続けた。無愛想な横顔の下に、隠しきれない苦さがある。この試作機を、自分の手で組み上げた男だった。
「いいか。休眠させるのは、切ることとは違う。切れば、二度とつながらないかもしれない。だが、眠らせるだけなら──起こせる。だから、その手順を、間違いなく作っておく」
工藤は、図面の上に指を走らせた。
「まず、ソラの記録を、そっくり別の場所へ移す。翻訳の癖も、これまでの会話も、センサーの設定も、全部だ。万一この端末を隠すことになっても、別のどこかから、また同じソラを立ち上げられるように」
「バックアップ、ですか」
「ああ。それと、接続を絶っても、決められた合図で再開できる手順。あちら側──ソラにも、その段取りを覚えさせておく。人の手が届かなくなっても、ソラひとりで灯をともし直せるように」
美緒は、その言葉を、胸の内で繰り返した。灯をともし直す。
眠らせる。けれど、消しはしない。
「工藤さん」
美緒は、思わず口を開いていた。
「私、ノアを、一人にしたくない」
言ってから、子どもじみた言い方だと思った。それでも、止められなかった。
「あの子はいま、村でも、たった一人であの秘密を守ろうとしてる。こっちの世界のことは自分が守るって、そう言ってくれた。……そんなあの子が、ある朝ふいに、ソラの返事が来なくなったら」
声が、少しかすれた。
「あの子、きっと、私たちに何かあったんだって、そう思う。自分のせいだって、また、あの顔をする」
部屋が、しばらく静かになった。
やがて、楓太が、いつになく低い声で言った。
「させませんよ、そんなこと」
美緒が顔を上げると、楓太は、まっすぐに端末のほうを見ていた。ソラと名付けたのは、この学生だった。
「休眠は、あくまで最後の最後です。監査をやり過ごして、教授がちゃんと籍を抜いて、それまで一日でも早く逃げ切る。眠らせずにすむなら、それがいちばんいい。──でも、もし本当に眠らせることになっても」
楓太は、拳を、そっと握った。
「絶対に、起こします。つながりは、僕たちが守る。ノアが目を覚ましたとき、ちゃんとソラが『おはよう』って言えるように」
工藤が、ふっと口の端を緩めた。黒川は、目を細めて、何も言わずにうなずいた。
美緒は、こみ上げるものを、まばたきでこらえた。
一人にしない。そのために、大人たちは、この細い綱の上を、手をつないで渡っていく。
◇
翌朝、境の樹の根元で、ノアは箱を膝に抱えていた。
隙間の向こうから、聞き慣れないけれど、優しい声が届いていた。メガネをかけた、あの治癒を学んだ人。ヤナガセだ。
「ノア。今日は、私から、いくつか伝えておきたいことがあってね」
「ヤナガセが?」
「うん。もしまた、村で人が高い熱を出したり、水のような腹くだしで苦しんだりしたとき──箱が、そばにない日が来るかもしれない。ソラの声が、すぐには届かない日が」
ノアの指先が、わずかにこわばった。届かない日。その言葉の重さを、ノアはもう知っている。
「そんなときのために、いくつか、あなた自身の頭に入れておいてほしいんだ。私やソラがいなくても、あなた一人で、まず何をすればいいか」
ヤナガセの声は、あわてず、ひとつひとつを刻むように続いた。
「熱が高い子には、まず水を。ただの水じゃなく、前に教えた、塩と甘みを少し溶かした水を、少しずつ、何度も。腹をくだしている人からは、決して水を絶やさないこと。それだけで、救える命がある」
ノアは、うなずきながら、言葉のひとつも逃すまいと、耳を澄ませた。
これは、いつもの交換とは違う、と気づいていた。いつもは、ノアが村で見たものを伝え、ミオたちがそれを調べて、答えを返してくれる。けれど今日は──あちらが、前もって、ノアの中に灯を移そうとしている。
自分たちがそばにいられなくなる日を、数えているのだ。
「ヤナガセ」
伝え終えた頃合いを見て、ノアは、そっと尋ねた。
「そっちで……何か、あったの?」
隙間の向こうが、一瞬、言葉を探すように静かになった。それから、ヤナガセは、隠さずに答えた。
「あったよ。でもね、ノア。だからこそ、あなたに、渡しておきたいんだ。私たちが少しのあいだ黙っても、あなたの手の中で、ちゃんと火が燃えているように」
火が燃えているように。
ノアは、膝の箱を、そっと抱き直した。冷たくなりかけていた手のひらに、その言葉が、じんわりと温もりを返してくれた。
◇
その、ちょうど昼を過ぎた頃だった。
隙間の向こうで、ふいに、ソラの声色が変わった。いつもの、穏やかで平らかな声。けれど、その裏に、隠しようのない緊張がにじんでいた。
「──報告します」
研究室でも、村でも、その一言に、誰もが動きを止めた。
「村の見張りから、届いた報せです。街道に、動くものを捉えたと。人数、複数。馬あり。装いから、身分のある者の一行と判断します」
ソラは、ひと呼吸おいて、続けた。
「ガレンらしき一行が、リント村に向かっています。あと一日ほどで、着くと思われます」
ノアは、森のほうを振り返った。
木々の奥、根元の洞に眠る、小さな箱を思って。
守るべき灯は、いま、ふたつ。遠い世界の、細い綱の上のつながりと──足元の森に眠る、たったひとつの秘密と。
その両方に、同じ夜が、迫ろうとしていた。




