第52話 僕にできること
朝もやの晴れかけた森のなかで、ノアは箱を膝に抱えたまま、じっと隙間の光を見つめていた。
大きなことが起きている。ミオの声に混じった重たいものが、まだ耳の奥に残っている。
「なに、が……起きてるの?」
尋ねる声が、少しかすれた。
隙間の向こうで、ミオが小さく息を吸う気配がした。言葉を選んでいる。そういうときの間だと、ノアにはもうわかる。
「ノア。あのね……キョウジュのこと、なの」
「キョウジュ?」
胸の奥が、ひやりとした。あの、いつも静かで、けれど誰よりも箱のことを大切にしてくれる人。滅多に姿を見せないのに、大事な話のときには、必ずそこにいる人。
「キョウジュはね、ずっと長いあいだ、大きな学び舎にいたの。たくさんの人が集まって、いろんなことを調べる場所。私たちも、みんなそこにいる。──でも、その学び舎の偉い人たちは、この箱のことを、知らないの」
「知らない……ずっと、隠してたってこと?」
「そう。この箱は、ほんとうは、外に知られちゃいけないものだった。もし知られたら──つながりを、切られてしまうかもしれない。この、あなたと話せる糸を」
ノアの指先が、冷たくなった。
切られる。この声が。ソラが。ミオたちが。境の樹の根元で、たったひとつ、ノアを別の世界とつないでいる、この細い糸が。
「それで、キョウジュは決めたの」
ミオの声が、震えないように、けれどまっすぐに続いた。
「学び舎を、早く辞めることにした。ほんとうは、まだ何年も先だったはずの日を、うんと早めて。辞めて、自分ひとりの手で、この箱を──あなたとのつながりを、守ろうとしてるの」
言葉の意味が、ゆっくりと胸に染みてくる。
早く辞める。長いあいだ身を置いた場所を。ノアには、その重さの全部はわからない。けれど、大人が、自分の居場所を手放すということが、どれだけ大きなことか、それくらいはわかる。村を出た二日間で、いやというほど、思い知ったから。
「そんな……そこまで」
声が、うまく出なかった。
「キョウジュが、そこまで……僕のために」
◇
隙間の向こうで、人の動く気配がした。
やがて、聞き慣れた、低く落ち着いた声が返ってきた。滅多に前に出ないその人が、今日は、自分から口を開いていた。
「ノア。私だ」
「キョウジュ……」
「ミオの話したとおりだ。私は、長くいた場所を離れる。それだけのことだよ」
それだけのこと、と、その人は言った。まるで、たいしたことではないというように。けれど、その静けさが、かえってノアの胸を締めつけた。
「でも、キョウジュの居場所が……僕のせいで」
「ちがう」
さえぎる声は、強くはなかった。ただ、はっきりとしていた。
「君のためだけじゃない。ノア、これはね、私が選んだことだ」
私が選んだこと。
その言葉に、ノアは、いつかのばあちゃんを思い出した。作り話に付き合うと決めたとき、ハンナは言った。おまえがそう言ったなら、あたしはそう生きてきたことにする、と。街で、命がけで薬を運んだダグも。──自分で選んだ、と、そう言える人たちの声を、ノアは知っていた。
「私は長いこと、この不思議な糸を、ただ研究の対象として見てきた。だが、いまはちがう。この向こうに、君がいる。君と、あの村の人たちがいる。それを守ることを、私は自分で選んだ。誰に命じられたわけでもない。──だから、君が背負うことは、何もないんだよ」
背負うことは、何もない。
そう言われて、けれど、ノアの胸は、かえって苦しくなった。
「僕に……僕にできることは、ないの?」
問いは、口をついて出た。
「なんでもいい。キョウジュの、ミオたちの力になれることが、何かあるはずだ。僕、街でだって、箱がなくても、自分の手で人を助けられた。だから──」
言いかけて、ノアは、言葉に詰まった。
街のこととは、ちがう。ロザを診たときは、目の前に病人がいて、手を伸ばせば届く場所に、薬草があった。けれど、いま起きていることは──キョウジュの世界のなかの出来事だ。学び舎も、偉い人たちも、ノアには、隙間の向こうの、手の届かない場所にある。
薬草の知識も、観察の眼も、この森の素材も。ノアの持っているものは、どれひとつ、あちらの世界の問題には、届かない。
「……ごめん」
うつむいて、ノアは、しぼり出すように言った。
「僕、いつも、助けてもらってばかりだ。困ったときは、いつだって、みんなが手を貸してくれる。なのに、みんなが困ってるときに、僕は……なんにも、できない」
隙間の向こうが、しばらく、静かだった。
やがて、ミオの声が、やわらかく戻ってきた。
「そんなことない」
「ミオ……」
「ノア。あなたが元気でいてくれること。あなたの声が、こうして毎日届くこと。私たちがなんのために頑張ってるかって、それは──全部、そのためなんだよ。だから、あなたがそこで、ちゃんと生きていてくれる。それがもう、いちばんの力なの」
わかった、とは、すぐには言えなかった。
それでも、ノアは、ぎゅっと箱を抱きしめた。冷たかった手のひらに、少しずつ、温もりが戻ってくる。
◇
通信を終えると、研究室には、しばらく誰も口をきかない時間が流れた。
美緒は、暗くなった画面を見つめたまま、動けずにいた。ノアの、うつむいた顔が、まだ目に焼きついている。あの子に、あんな顔をさせたかったわけではない。ただ、隠しておくことは、もっと不誠実に思えた。
「言わなきゃ、よかったのかな」
ぽつりと漏らすと、机に向かっていた工藤が、手を止めた。
「いや」
短く、けれどきっぱりと、工藤は言った。
「あいつは、隠されるのを一番嫌う。半端に守られるより、本当のことを知りたがる。……お前だって、そうだろう」
美緒は、小さくうなずいた。
工藤の机の上には、接続系統の図面と、見慣れないスケジュール表が広げられている。楓太が、その一枚をのぞきこんで、眉を寄せた。
「工藤さん、これ……もし大学に嗅ぎつけられたときの、手順ですか」
「最悪の場合の、な。接続を一度眠らせて、痕跡を最小にする。教授が正式に籍を抜くまでの、いちばん危ない時期を、どう乗り切るか」
「眠らせるって……ノアと、話せなくなるってことじゃ?」
「一時的にだ。だが、そうならないに越したことはない」
工藤の声には、いつもの無愛想の下に、隠しきれない苦さがあった。試作機を作ったのは、この男だ。あの箱の向こうに少年がいると知ってしまった以上、いちばん割り切れないのも、きっとこの男だった。
部屋の奥のドアが、静かに開いた。
黒川教授が、コートを腕にかけて立っていた。これから、大学の事務方との、幾度目かの面談へ出るところらしい。退職の前倒しには、想像していた何倍もの書類と、頭を下げる相手がいた。
「ノアには、話したのか」
「はい」美緒が答える。「……あの子、自分にできることはないかって。困ってるみんなの力になりたいって、そう言って」
黒川は、目をわずかに細めた。
「そうか」
それきり、何も言わなかった。けれど、その横顔には、疲れとは別の、静かな何かがにじんでいた。守るべきものが、ちゃんとそこにいる。そのことを、確かめるような表情だった。
「行ってくる」
短くそう言い残して、黒川は、廊下の光の中へ出ていった。その背中が、いつもより少しだけ小さく見えて、美緒は、唇を噛んだ。
あの子にできることは、たしかに、ここにはほとんどない。けれど──と、美緒は思う。あの子が向こうで生きていること。それだけを頼りに、大人たちは、この重たい坂道を、のぼっていける。
◇
その日の昼過ぎ、ノアが村に戻ると、井戸端が、いつもとちがってざわついていた。
人の輪の真ん中に、村長がいた。険しい顔で、旅装の男から、一枚の書きつけを受け取っている。街から来た、早馬の使いらしかった。
ティナが、こわばった顔で駆け寄ってきた。
「ノア。大変なの」
「どうしたの、ティナ」
「あの、街の……ガレンって人。あの人が──今度は、この村まで来るって」
心臓が、大きく跳ねた。
「村に? ガレンが、ここへ?」
「うん。ノアのことを、もっとちゃんと調べたいんだって。近いうちに、村へ調べに来るって、書いてあるって」
ノアは、思わず、森のほうを振り返った。
木々の奥、境の樹のある方角。あの根元の洞に眠る、小さな箱を思って。
守らなければならないものが、ふたつになった。手の届かない、遠い世界のつながりと──足元の、この村に眠る、たったひとつの秘密と。
朝の森で聞いた、キョウジュの言葉が、耳の奥でよみがえる。これは、私が選んだことだ。
ならば、と、ノアは、こわばった拳を、そっと握りしめた。
こちらの世界のことは、僕が選んで、僕が守る。




