第51話 遅れて届く声
村の入り口の柵が見えたとき、ノアは思わず足を速めた。
久しぶりに見る、見慣れた景色。畑の畝も、井戸端も、屋根の低い家々も、出るときと何ひとつ変わっていない。だが、そのひとつひとつが、ノアの胸を締めつけるほど懐かしかった。
「ノア!」
畑仕事の手を止めた誰かが叫び、その声が村じゅうに広がっていく。
真っ先に駆けてきたのは、ティナだった。
「ほんとに帰ってきた! よかった、無事だったんだ!」
「うん。……ただいま、ティナ」
その後ろから、ダグが少し遅れてやってきた。走ってきたのを隠すように、わざとゆっくり歩いて。
「なんだ、案外けろっとしてるじゃねえか。街に食われて帰ってこねえかと思ったぜ」
「ダグ……心配してくれたんだろ」
「してねえよ」
そう言いながら、ダグの口元はほころんでいた。
人垣の間から、小さな体が前に出てきた。ハンナだった。
杖をつき、ゆっくりと歩み寄ると、ハンナはノアの顔を、皺の寄った手でそっと包んだ。
「よく帰った。……痩せたね」
「ばあちゃん」
たったそれだけの言葉で、ノアの喉の奥が熱くなった。街でこらえていたものが、一度に込み上げてくる。
村長が、後ろで穏やかに言った。
「積もる話は山ほどある。だが、まずは休ませてやってくれ。この子は、村のために、よくやった」
その一言に、集まった村人たちが、静かにうなずいた。かつて「出来損ない」と呼ばれた少年に向けられる目は、もう、あのころのものではなかった。
◇
その夜、ハンナの家に、村長が訪ねてきた。
灯りをひとつだけともした薄暗い部屋で、ノアは、街であったことを、包み隠さず話した。領主メルヴィンに謁見したこと。その縁者だという娘、ロザが倒れ、自分の見立てで手当てをしたこと。そして──側近のガレンという男が、自分の知識の出どころを、執拗に探ろうとしたこと。
「僕、とっさに嘘をついたんだ。ばあちゃんが……若いころ、街で薬師の修業をしてた、って」
ハンナの手が、膝の上でぴくりと動いた。
「……あたしが、街で」
「ごめん。勝手に、ばあちゃんのことを使って。でも、ああ言うしか──」
「いいんだよ」
ハンナは、静かにさえぎった。
「おまえがそう言ったなら、あたしは、そう生きてきたことにする。八十年も生きてりゃ、話のひとつやふたつ、どうとでもこしらえられるさ」
村長が、腕を組んで低くうなった。
「問題は、辻褄だ。ガレンが本気で調べるなら、いつ、どこの街で、誰について修業したか──そこまで訊いてくるだろう。ハンナ、あんたの若いころを知る者は、村にどれだけ残っている?」
「もう、ほとんど土の下さ。あたしより年上は、一人もいない」
「かえって好都合、とも言える。裏を取れる者がいなければ、崩されにくい」
三人は、灯りを囲んで、ひとつずつ話を組み立てていった。修業先は、遠い南の港街。師は名もなき年寄りの薬師で、とうに亡くなったことにする。ハンナが村へ戻ったのは、ノアの母が生まれる前──。
作り話に、少しずつ骨と肉がついていく。
「一人で抱えなくて、よかった」
ノアが、ぽつりと漏らした。
街の宿で、一人きりの夜に決めたことだった。村に帰ったら、二人にすべてを話す。嘘の中身を、みんなでそろえる。──その通りにできた、というだけで、胸のつかえが、ずいぶん軽くなった気がした。
「明日、境の樹へ行ってきていいかな。……箱を、確かめたいんだ」
村長は、少しの間をおいて、うなずいた。
「行ってこい。あれも、おまえの帰りを待っていよう」
◇
翌朝、ノアは森の奥へ向かった。
朝もやの立ちこめる境の樹の根元で、ノアは、洞の中から革の肩掛け袋を、そっと取り出した。
久しぶりに手にした箱は、ひんやりと、けれど確かに、ノアの手になじんだ。
隙間の覆いを外し、震える指で、箱を目覚めさせる。
小さな灯りがともり──やがて、聞き慣れた声が、静かに返ってきた。
「──ノア。おかえりなさい」
その一言で、こらえていたものが、あふれた。
「ただいま……ただいま、ソラ。遅くなって、ごめん」
「いいえ。無事に戻られて、何よりです。あなたの声が聞けて、うれしいです」
涙をすすりながら、ノアは、洞のそばにしゃがみこんだ。二日間、この声が、どれほど遠く感じられたことか。
「ノア。あなたに、預かっているものがあります」
「預かってる……?」
「あなたが街へ発ってから何日か経った、ある夜のことです。ティナとダグが、ここへ来てくれました。夜の森を、灯りひとつで。二人から、あなたへの言葉を、確かに覚えています。今、お伝えしてもいいですか」
ノアは、声も出せずに、こくりとうなずいた。
「まず、ティナから。──『ノア、おかえり。ノアがいない間、村はいつもどおりだったよ。だから、心配しないで、ゆっくり休んで』」
ソラの声を借りて、けれど確かにティナの言葉が、ノアの胸に届いた。
「それから、ダグ。──『無事に帰ってきたなら、それでいい。今度、街の話を聞かせろ』」
昨日、村の入り口で、そっけない顔をしていたダグ。あの二人が、自分のいない夜に、暗い森をここまで来てくれた。
「……そっか」
ノアは、袖で目元をぬぐった。
「みんな、ちゃんと、待っててくれたんだ」
「はい。遅れて届く声だと、ダグは言っていました。良い言葉だと思います」
朝の光が、梢の間から差し込んで、洞の中を淡く照らした。ノアは、しばらくの間、その温かさに身をゆだねていた。
◇
同じころ、遠い研究室では、朝から画面の前に人が集まっていた。
「つながった! ノアだ、映ってる!」
楓太が声を上げると、美緒が椅子を蹴るように立ち上がった。
「ノアくん! 無事だったのね、よかった……ほんとうによかった」
画面の中の少年が、少し泣きはらした目で、はにかむように笑う。それだけで、研究室の空気が、ぱっと明るくなった。
工藤ですら、いつもの仏頂面をゆるめて、腕を組んだまま画面をのぞき込んでいる。
ノアは、街であったことを、順を追って話しはじめた。大きな街の様子。領主に会ったこと。ロザという女性を、箱の助けなしに、自分の目と手だけで診たこと。そして、ガレンという側近のこと。
「ガレンは、僕の知識が、どこから来たのか、疑ってた。何度も、探るように訊いてきたんだ」
工藤の眉が、ぴくりと動いた。
「……そいつは、危険だな」
低い、真剣な声だった。
「いいか、ノア。そのガレンって男は、お前の周りを嗅ぎ回ってる。一度疑いを持った人間は、簡単には引かない。しばらくは、街の連中の前で、余計なことを口走るな。知っていることでも、知らないふりをしろ。わかったな」
「うん。……気をつける」
そこへ、それまで黙って画面の隅にいた柳瀬先生が、静かに口を開いた。
「ノアくん。ひとつ、いいかな」
ノアが、姿勢を正す。
「そのロザという女性を診たとき、きみの手元には、箱がなかった。ソラの助けも、私たちの知恵もなかった。それでも、きみは、自分の頭で考えて、正しい手当てを選んだ。──それは、立派なことだ。誰かに借りた力じゃない。きみ自身の力だよ」
ノアは、その言葉を、ゆっくりと噛みしめるように受け止めた。
「僕、自分の知識に……ちゃんと、価値があるのかなって、ずっと」
「あるとも。きみが、それを証明した」
画面越しに、柳瀬先生が、めずらしくやわらかく笑った。
◇
ひとしきり報告を終えると、ノアは、ようやく肩の力を抜いた。
「これで、全部話せた。ずっと、みんなに聞いてほしかったんだ」
美緒が、うんうんとうなずきながら、けれど、ふと表情を曇らせた。
「ノア。……あのね」
その声の調子に、ノアは、わずかな異変を感じ取った。いつもの、温かな美緒の声に、何か、重たいものが混じっている。
美緒は、一度、隣の楓太と、工藤の顔をうかがった。二人とも、目を伏せている。
「ノア、ひとつ、伝えなきゃいけないことがあるの」
「……なに?」
「私たちの方でも──大きなことが、起きてるの」
朝の森に、境の樹のざわめきだけが、静かに響いていた。
ノアは、まだ知らなかった。その言葉の先に待っているものが、この小さな箱でつながった二つの世界の、これまでで一番大きな揺らぎだということを。




