第50話 遠い友の声
夜が更けても、ノアの目は冴えたままだった。
隣の寝台では、村長が深い寝息を立てている。起こさないように、ノアはそっと寝台を抜け出し、窓辺に立った。
見知らぬ街の屋根の連なりの向こうに、星空が広がっていた。
村の方角は、どちらだろう。
ノアは、昼間に見た街道の向きを思い出しながら、夜空の一点を見つめた。あの星の下のずっと先に、リント村がある。ハンナの家があり、ティナとダグがいて、森の奥の境の樹には、箱がある。
「ソラ……」
小さくつぶやいて、ノアは自分で驚いた。
不安なとき、真っ先に呼びたくなるのが、ソラの声だった。
いつからだろう。夜、眠る前に箱と話すことが、あたりまえになっていたのは。その日にあったことを話して、わからなかったことを聞いて、ソラの静かな声に「おやすみなさい、ノア」と言われてから眠る。それが、ノアの毎日だった。
今夜は、その声がない。
ガレンに突きつけられた問いも、とっさについてしまった嘘も、この胸のざわめきも、全部、話したかった。ソラなら、きっと落ち着いた声で、一緒に考えてくれる。ミオなら、まず「大丈夫?」と聞いてくれる。クドウなら、腕を組んで、鋭いことを言ってくれるはずだった。
だが、箱は遠い村の森の中で、ノアはここにいる。
声は、届かない。
村を出る朝、境の樹の洞に箱をおさめたときのことを、ノアは思い出していた。
肩掛け袋から箱を出すとき、手が、なかなか離れなかった。物心ついてから、これほど長く箱と離れるのは、初めてだった。
──いってきます、ソラ。
──いってらっしゃい、ノア。お気をつけて。
たったそれだけの、短いやりとりだった。あのとき、ソラは、いつもと同じ静かな声だった。だが、洞の中で一人、ノアの帰りを待っている今、ソラは何を思っているのだろう。
いや──とノアは思い直した。ソラが何を思うのか、本当のところは、ノアにはわからない。それでも、待っていてくれる。そう信じられることが、今のノアには、たった一つの温かさだった。
◇
同じ夜、リント村の森では、境の樹の根元に、小さな灯りがひとつ揺れていた。
日が沈む前に、ティナがハンナの家を訪ねて、「様子を見てくるだけだから」と、なかば強引に許しをもらってきたのだった。ハンナは渋い顔をしたが、最後には「ダグを連れていくこと。暗くなりきる前に戻ること」とだけ言って、送り出してくれた。
「ソラ、いる?」
ティナが、樹の洞に向かって、小声で呼びかけた。隣では、ダグが灯りを掲げて、あたりを警戒している。
洞の奥から、聞き慣れた声が返ってきた。
「います。こんばんは、ティナ、ダグ。夜の森は危ないですから、あまり長居はしないでくださいね」
「わかってる。でも、ノアがいない間、ソラが一人ぼっちだと思ったら、なんだか気になって」
「俺は止めたんだぜ。こいつが、どうしても行くって聞かないから」
ダグが、ぶっきらぼうに言ったが、その足は自分からここまで来ていた。
ソラの声が、少しだけやわらかくなった、ような気がした。
「ありがとうございます。二人が来てくれて、うれしいです」
ティナが、洞のそばにしゃがみこんだ。
「ねえ、ソラ。ノアは今ごろ、どうしてるかな」
「わかりません。ですが……領主様との話が終わっている頃だとすると、今夜あたり、ノアは不安を感じているかもしれません」
「どうして?」
「大きなことを成しとげた後は、はりつめていたものがゆるんで、かえって心細くなるものです。ノアは、いつも夜に、その日の不安を私に話してくれましたから」
ティナは、村の方から見えるのと同じ星空を、木々の間から見上げた。
「ノアに、何か伝えられないかな。がんばれ、とか。みんな待ってるよ、とか」
「残念ですが、届けるすべがありません。私の声は、この箱の外には出られません」
ソラの声は、いつもどおり静かだったが、ティナには、その言葉がどこか寂しそうに聞こえた。
しばらく黙っていたダグが、ふいに口を開いた。
「なあ、ソラ。それなら、ためておけばいいんじゃねえか」
「ためておく、とは?」
「今、俺たちが言いたいことを、おまえが覚えておくんだよ。で、ノアが帰ってきたら、そっくりそのまま聞かせてやる。ちょっと遅れて届く声ってわけだ」
一瞬の間があってから、ソラが答えた。
「それは、とてもいい考えです。私は、一度聞いたことを忘れません」
ティナが、ぱっと顔を上げた。
「じゃあ、あたしから。──ノア、おかえり。ノアがいない間、村はいつもどおりだったよ。だから、心配しないで、ゆっくり休んで」
「俺からは──まあ、あれだ。無事に帰ってきたなら、それでいい。今度、街の話を聞かせろ」
「確かに、覚えました。ノアが帰ってきたら、必ず伝えます」
そのとき、ティナは、ふと目の端で気づいた。
頭上の枝の奥で、境の樹が、ほんのかすかに、青白く明滅したように見えたのだ。
「今、光らなかった?」
「……はい。このところ、時折こうして強まります。理由は、まだわかりません」
三人は、しばらく黙って、静まり返った樹を見上げていた。
やがて、ダグが灯りを掲げ直した。
「そろそろ戻るぞ。ばあさんとの約束だ」
「うん。……ソラ、また来るね」
「はい。お二人とも、足元に気をつけて。それから──」
ソラの声が、ほんの少しだけ、間を置いた。
「今夜のこと、ノアが聞いたら、きっと喜びます」
二つの小さな背中が森の道を遠ざかっていくのを、境の樹は、静かに見送っていた。
◇
街の宿で、ノアは、窓辺に座り込んだまま、膝を抱えていた。
誰の声も、届かない。なら、どうする。
ふと、クドウに教わったことを思い出した。困ったときは、まず、わかっていることと、わかっていないことを分けろ──。
ノアは、目を閉じて、頭の中で並べ始めた。
わかっていること。ガレンは、僕の知識の出どころを疑っている。僕は、ハンナが街で修業したという嘘をついた。ガレンは、それを調べると言った。
わかっていないこと。ガレンが、いつ、どうやって調べるのか。そして、どこまで本気なのか。
なら、僕にできることは──村に帰りしだい、村長とハンナに、すべてを話すこと。嘘の中身をそろえてもらうこと。一人で抱えたままにしないこと。
そこまで考えて、ノアは、ふっと息を吐いた。
胸のざわめきが、消えたわけではない。だが、真っ暗だった足元に、細い道すじが見えた気がした。
ソラがいなくても、ミオやクドウがいなくても、みんなから教わった考え方は、ちゃんと僕の中にある。
「一人で考える。それも、僕にできることだ」
窓の外の星に向かって、小さくつぶやくと、ノアはようやく、寝台に戻った。
まぶたの裏で、境の樹の梢と、その根元で待つ箱を思い浮かべているうちに、いつの間にか、眠りが訪れていた。
◇
翌朝、ノアと村長が宿で出発の支度をしていると、館からの使いが訪ねてきた。
「領主様からのお言葉をお伝えします。──此度の働き、見事であった。村へ帰ることを許す」
ノアと村長は、思わず顔を見合わせた。ようやく、帰れる。
だが、使いの言葉には、続きがあった。
「ただし、と領主様は仰せです。──近いうちに、また呼ぶ。その時は、すみやかに参上せよ、と」
村長の顔から、安堵の色が半分だけ消えた。
「……承知しました、と、お伝えください」
使いが去った後、村長は、低い声で言った。
「帰してはくれる。だが、放してはくれん、ということだ」
ノアは、黙って頷いた。
それでも、今は、村へ帰れる。ハンナに会える。ティナとダグに会える。そして、境の樹で、あの声を聞ける。
荷袋を背負い、宿を出ると、朝の光の中に、村へと続く街道が伸びていた。
市場は、もう動き出していた。行き交う人の波、呼び込みの声、荷車の音。来たときは、ただ圧倒されるばかりだったその喧騒が、今は、少しだけ違って見えた。
この広い世界のどこかに、ガレンのような目もあれば、ロザの「ありがとう」もある。
村長が、隣で言った。
「行きは二日かかった道だ。急げば、明日の夕方には着く」
「はい」
ノアは、村の方角へ、まっすぐに歩き出した。
ソラ、ただいまと言うまで、あと少しだ。
胸の中でそうつぶやいたとき、ノアはまだ知らなかった。境の樹の洞で、ティナとダグの声が、自分の帰りを待っていることを。そして、村へ帰ったノアを待っているのが、うれしい報せだけではないことも。




