第49話 ガレンの影
館を出た頃には、すでに日が高く昇っていた。
一晩中ロザに付き添っていたノアと、待ち続けていた村長は、二人とも疲れ切っていた。今すぐ村へ向けて歩き出したい気持ちはあったが、リント村までは、大人の足でも二日はかかる道のりだった。
「このまま歩き出しても、途中で倒れる」
村長が、疲れた声で言った。
「今夜は、街の宿で休もう。夜明けと共に、村へ出発する」
ノアも、頷くしかなかった。
館の者が手配してくれた宿は、市場からほど近い、こぢんまりとした建物だった。案内された部屋で、村長はすぐに横になり、深い寝息を立て始めた。長旅の疲れと、緊張の連続だった一晩が、一気にのしかかったのだろう。
ノアも横になったが、なかなか眠れなかった。頭の中で、ガレンの言葉が、何度も繰り返し響いていた。
──それにしても、不思議です。あなたのような、辺境の村の少年が、これほどの知識と判断力を、どこで身につけたのか。
窓の外から、市場の喧騒が、遠く聞こえてくる。ノアは、天井を見つめたまま、なかなか消えない胸のざわめきを、持て余していた。
◇
日が傾き始めた頃、宿の主人が、部屋の扉を叩いた。
「お客様に、面会だそうです」
ノアが顔を出すと、そこには、ガレンが一人で立っていた。
供も連れず、館の外套も脱いで、目立たない身なりをしている。
「少し、話がしたい」
ガレンの声は、穏やかだったが、有無を言わせない響きがあった。
村長を起こすべきか迷ったが、ガレンは「二人だけで」と、はっきりと言った。
ノアは、仕方なく、宿の一階の隅にある席に、ガレンと向かい合って座った。行き交う客の声が、遠くに聞こえる。
「単刀直入に聞こう」
ガレンが、卓に肘をついた。
「お前の知識は、どこから来ている」
「祖母から──」
「その答えは、もう聞いた」
ガレンが、遮るように言った。
「祖母から教わっただけの知識で、街の治癒師も知らない対処法を、次々と思いつくものかな。塩と砂糖を溶かした水にしろ、水源の汚染を疑う目にしろ──まるで、どこかで体系立てて学んだ者のようだ」
ノアの心臓が、大きく跳ねた。
「僕は、ただ──」
「隠し事があるなら、今のうちに言っておいた方がいい」
ガレンの目が、まっすぐノアを見据えた。
「私は、お前を罰したいわけじゃない。ただ、知りたいだけだ。お前という人間の、本当のところを」
ノアは、膝の上で拳を握った。
箱のことは、絶対に言えない。だが、下手な言い訳をすれば、かえって怪しまれる。
「祖母は、若い頃、街で薬師の修業をしていたことがあります。その頃の知識を、僕に伝えてくれました」
とっさに、口をついて出た言葉だった。半分は本当で、半分は、ノアが今作った話だった。
ガレンは、しばらく黙って、ノアを見つめていた。
「なるほど。街での修業、か」
「はい」
「祖母君の名は、なんという」
「ハンナです」
「街の、どこの店で修業したのか、覚えているか」
ノアは、一瞬、言葉に詰まった。そこまでは、考えていなかった。
「……詳しくは、聞いていません。ずいぶん昔のことですから」
「そうか」
ガレンは、卓の上に置かれた自分の手を、静かに組み替えた。何かを確かめるような、それでいて、こちらの反応をうかがうような仕草だった。
ガレンの声には、納得したような響きは、まるでなかった。
「調べれば、わかることだ」
その声には、脅しというより、事実を告げるだけの静かな確信があった。だからこそ、なおのこと、ノアの胸に重くのしかかった。
その一言に、ノアの背筋が凍りついた。
「今日のところは、これで失礼しよう」
ガレンは、静かに立ち上がった。
「だが、また会うことになる。その時までに、もう少し、納得のいく話を用意しておくといい」
そう言い残し、ガレンは宿を出ていった。
その後ろ姿が見えなくなるまで、ノアは、椅子から立ち上がることさえできなかった。
◇
部屋に戻っても、ノアの動悸は治まらなかった。
嘘をついてしまった。それも、調べればすぐに崩れるような、脆い嘘を。
村長を起こして相談しようかとも思ったが、疲れ切って眠る村長の顔を見ると、そのまま起こす気になれなかった。今、この重荷まで背負わせるのは、あまりにも酷だと思った。
窓の外は、すっかり夜になっていた。見慣れない街の屋根の連なりの向こうに、星が瞬いている。
村では、今頃、ハンナやティナ、ダグが、ノアの帰りを待っているはずだった。ソラも、境の樹で、一人、留守を守っているはずだった。
ノアは、膝を抱えて、小さくなった。
箱のことが、知られるかもしれない。
そう思うだけで、体の芯から、冷たいものが込み上げてきた。
もし本当のことが明るみに出れば、村長やハンナ、ティナやダグまで、巻き込んでしまうかもしれない。研究室のみんなにも、取り返しのつかない迷惑をかけてしまうかもしれない。
「僕のせいで……」
小さくつぶやいた声が、静かな部屋に消えていった。
こんなとき、箱があれば。ソラに、この不安を、そのまま話せたら。ミオやクドウなら、きっと、何か知恵を貸してくれる。
だが、今この部屋には、ノア一人しかいなかった。
自分の考えだけで、この不安と向き合わなければならない。
ロザを救えたことは、間違いなく、正しいことだったはずだ。それなのに、どうして、こんなにも恐ろしい気持ちになるのだろう。
誰かを救うたびに、何かを差し出さなければならないのだとしたら──それは、あまりにも、割に合わない気がした。
眠ろうとしても、目は冴えるばかりだった。
長い夜が、まだ続いていた。
窓の外の月は、村で見るものと、同じはずだった。だが今夜だけは、いつもよりずっと遠く、冷たく見えた。
ノアは、そっと目を閉じた。せめて、夜が明けるまでの間だけでも、心を落ち着けたかった。
明日には、村へ帰る。ハンナに会える。ソラの声を聞ける。
そう思うことだけが、今のノアにとって、唯一のよりどころだった。




