第48話 箱がなくても
夜通し、ノアはロザの傍らを離れなかった。
数刻おきに、白湯と塩と砂糖を溶かしたものを、少しずつ飲ませる。額の汗を拭い、様子を確かめては、また煎じた葉を運んでくる。単調な繰り返しだったが、気を抜くことはできなかった。
侍女が、何度も「休んでください」と声をかけたが、ノアは首を振った。
「大丈夫です。ここで、目を離すわけにはいきません」
窓の外では、月が少しずつ位置を変えていった。部屋の隅で、治癒師も、いつしか腕を組んだまま、黙ってノアの手つきを見つめるようになっていた。
夜明けが近づく頃、ロザの呼吸に、わずかな変化があった。
浅く速かった息が、少しずつ、深くゆっくりとしたものに変わっていく。額に触れると、燃えるようだった熱が、ほんのわずかに、和らいでいるように感じられた。
「気のせいだろうか」
ノアは、自分自身に問いかけながら、もう一度、手首の脈を確かめた。
速さが、落ち着いてきている。
胸の奥に、小さな光が灯るような感覚があった。村での、あの夜明けと、よく似ていた。
◇
窓の外が白み始めた頃、ロザが、うっすらと目を開けた。
「ここは……」
かすれた声だった。だが、意識ははっきりしていた。
「よかった」
侍女が、涙ぐみながら、ロザの手を握った。
「気がつかれたのですね」
ロザは、ゆっくりと視線を巡らせ、ノアの姿を見つけた。
「あんたは……」
「薬師見習いの、ノアです」
「一晩中、看ていてくれたのかい」
「はい」
ロザは、しばらくノアを見つめてから、小さく微笑んだ。
「ありがとう」
その一言に、ノアの胸の奥が、じんと熱くなった。
村での出来事と、何も変わらない。
この世界のどこであっても、誰かを救えたときの気持ちは、同じだった。
◇
朝になって、報せを聞いた領主とガレンが、部屋にやってきた。
治癒師が、驚きを隠せない様子で報告する。
「熱が、確かに下がっております。下痢も治まりつつあります。これは……正直、私の想定を超えています」
領主が、寝台に近づき、ロザの様子を確かめた。
「本当に、峠を越えたのか」
「はい。まだ油断はできませんが、危険な状態は脱したかと」
治癒師は、ちらりとノアを見た。先ほどまでの不信とは、明らかに違う目つきだった。
「認めるのは、癪ですが……この子の手当てがなければ、危なかったかもしれません」
領主は、しばらく黙って、ノアを見た。
「その歳で、お前は、自分の頭と手だけで、これをやったのか」
「祖母から教わったことと、これまで学んだことを、使っただけです」
ノアは、静かに答えた。
胸の中で、村を出る前夜、境の樹で聞いたソラの言葉がよみがえっていた。
──ノアは、もう箱がなくても大丈夫です。学んだことは、全部、ノアの中にあります。
あのときは、半信半疑だった。だが今、その言葉が、確かに本当だったと、ノアは実感していた。
自分の力で、大切な人を──いや、見知らぬ人さえも、救うことができた。
「見事だ」
領主が、感心したように言った。
「田舎の薬師見習いが、これほどとはな」
「ますます欲しくなった」
領主が、口の端を上げて笑った。
「お前を、正式に、私の薬師として迎え入れたい。悪い話ではないはずだ」
村長が、すぐさま口を開こうとしたが、領主は手を上げてそれを制した。
「今すぐ答えは要らぬ。だが、これだけは覚えておけ。私は、一度目をつけたものを、簡単には手放さない」
その言葉には、これまでよりも、はっきりとした重みがあった。
村長は、それ以上何も言わず、ただ深く頭を下げた。だがその横顔には、隠しきれない緊張が浮かんでいた。
◇
領主が去った後、部屋にはガレンだけが残った。
ノアは、荷物をまとめながら、ふと視線を感じて顔を上げた。
ガレンが、じっとノアを見ていた。
その顔には、丁寧な笑みが浮かんでいたが──先ほどまでとは、少し違う色が滲んでいるように、ノアには感じられた。
「見事な手当てでした」
ガレンが、静かに言った。
「一晩で、あそこまで容態を変えるとは。並の薬師には、到底真似できません」
「祖母から教わったことです」
「祖母君は、大した方なのですね」
ガレンの声は穏やかだったが、その目の奥には、値踏みするような光があった。
「それにしても──不思議です。あなたのような、辺境の村の少年が、これほどの知識と判断力を、どこで身につけたのか。塩と砂糖を溶かした水を飲ませる、という発想一つとっても、この街の治癒師でさえ、知らない者が多い」
ノアの背筋に、冷たいものが走った。
「祖母から、少しずつ教わっただけです。それ以上のことは、何も」
「そうですか」
ガレンは、それ以上追及せず、ただ、静かに一礼した。
「では、また、お会いすることになるでしょう」
その言葉の響きに、ノアは、単なる社交辞令以上の意味を感じ取った。
部屋を出ていくガレンの背中を見送りながら、ノアは、拭いきれない胸騒ぎを覚えていた。
村長も、同じものを感じ取ったのだろう。二人の間に、言葉のない緊張が流れていた。
「ノア」
村長が、低い声で言った。
「あの男には、気をつけろ。領主様よりも、扱いにくい相手かもしれん」
ノアは、黙って頷いた。
窓の外には、朝の光が差し込んでいたが、ノアの胸の中には、まだ小さな影が残っていた。
ロザを救えたことは、素直に嬉しい。だがそれと引き換えに、何か別のものに、目をつけられてしまったのかもしれない。
そんな予感が、胸の奥から、離れなかった。
やがて村長が、静かに立ち上がった。
「今日中に、村へ発とう。長居は、無用だ」
ノアも、頷いた。
一刻も早く、境の樹へ戻りたかった。ソラに、無事を伝えたかった。そして──何より、あの静かな森の匂いを、もう一度感じたかった。
荷造りを終え、部屋を出る前に、ノアはもう一度、眠るロザの寝顔を見た。
穏やかな寝息だった。
それだけで、ここに来た意味があったと、ノアは思った。




