第47話 試される薬
ガレンに案内された部屋は、館の東の奥、日当たりの悪い一角にあった。
扉を開けると、むっとした熱気と、かすかに酸っぱいような匂いが鼻をついた。狭い部屋の中には、粗末な寝台がひとつだけ置かれていた。
寝台に横たわっていたのは、白髪の老いた女性だった。頬はこけ、額には玉のような汗が浮かんでいる。傍らには、心配そうな顔をした若い侍女が一人、水桶を抱えて立っていた。
「ロザだ」
ガレンが、静かに言った。
「長年、この館に仕えてくれている。私にとっても──恩人のような人だ」
ガレンの声には、いつもの丁寧さとは違う、切実な響きがあった。
部屋の隅には、館付きの治癒師が、腕を組んで立っていた。ノアを見る目に、あからさまな不信が滲んでいる。
「小僧に何ができる。私の治癒魔法でも、熱一つ下げられんというのに」
その言葉は、ノアの胸に、小さく刺さった。
だが、ひるんでいる暇はなかった。
「失礼します」
ノアは寝台のそばに膝をつき、まず、ロザの顔色と唇の色を確かめた。次に、そっと手首に触れ、脈の速さと強さを確かめる。
村で、何度も繰り返してきた手順だった。指先の感覚を頼りに、ノアは自分の記憶と、目の前の症状を、一つずつ照らし合わせていった。
「いつから、この状態に?」
侍女に尋ねると、震える声で答えが返ってきた。
「三日前からです。最初は、少しだるそうにしているだけで……それが、昨日から急に、熱が上がって」
「その前に、何か変わったものを口にしませんでしたか。食事でも、水でも」
侍女は、少し考えてから、はっとした顔をした。
「そういえば……四日前、館の裏の井戸が、一時的に濁ったことがありました。すぐに新しい水に替えたのですが、ロザ様は、その濁った水で淹れたお茶を、召し上がっていたかもしれません」
ノアの中で、いくつもの記憶が繋がった。
村の水源が汚染されたときのこと。あのときも、似たような経過をたどった。熱、だるさ、そして──
「お腹の具合は、どうですか」
「ここ二日、ひどい下痢が続いています」
治癒師が、鼻を鳴らした。
「それがどうした。ただの食あたりだろう」
「いいえ」
ノアは、はっきりと首を振った。
「汚れた水を飲んだ後、こういう経過をたどる病を、僕は知っています。村でも、同じことがありました」
部屋の空気が、わずかに張り詰めた。
領主から遣わされた立会いの兵士が、じっとノアを見ていた。
ノアの手のひらに、汗がにじんだ。箱もない。ソラの声も届かない。今ここにあるのは、自分の目と、耳と、これまで積み重ねてきた知識だけだった。
だが──それで、十分だ。
村で、ハンナと一緒に、何度もこの手で人を救ってきた。あのときと、同じことをすればいい。
「治癒魔法だけでは、この病は治りません。熱を下げるだけでは、体の中の水と塩が失われ続けて、かえって弱ってしまいます」
「では、どうしろというのだ」
治癒師が、苛立たしげに言った。
「まず、きれいな水を、しっかり沸かしてください。それに、ひとつまみの塩と、少しの砂糖を溶かして、少しずつ飲ませます。それから──」
ノアは、部屋の隅にある薬箱に目をやった。
「あの中に、苦味のある乾燥した葉があれば、見せてもらえますか。白っぽく、細長い葉です」
侍女が、慌てて薬箱を持ってきた。中を確かめると、探していた葉が入っていた。村でハンナが、熱冷ましに使うのと同じ種類のものだった。
「これを、煎じてください。少しずつ、何度かに分けて」
治癒師が、疑わしげに眉を寄せた。
「そんな民間療法で……」
「試す価値はあるはずです」
ガレンが、静かに口を挟んだ。
「やってくれ、ノア殿。私が、責任を持つ」
治癒師は、不服そうな顔をしながらも、それ以上は何も言わなかった。
侍女たちが、大急ぎで湯を沸かし始めた。ノアは、ロザの傍らに座り、経過を見守った。
部屋の外では、領主とガレン、そして村長が、固唾を呑んで見守っている気配があった。
ノアの心臓が、早鐘のように打っていた。
これは、村での出来事とは違う。誰も、ノアの味方だと決まっているわけではない。失敗すれば、ノアの言葉は──いや、ノアという存在そのものが、疑われる。
それでも。
ロザの唇に、匙で少しずつ、白湯に塩と砂糖を溶かしたものを含ませていく。むせないように、ゆっくりと、少しずつ。
しばらくして、ロザが、突然、小さく咳き込んだ。体が、びくりと震える。
「大丈夫ですか」
侍女が、悲鳴に近い声を上げた。治癒師が、勝ち誇ったような顔で、一歩前に出た。
「ほら見ろ、素人の手当てなど──」
「待ってください」
ノアは、ロザの様子を、じっと観察した。咳き込んだのは、むせただけだ。呼吸は、乱れていない。
「これは、悪くなったんじゃありません。飲み込むのに、慣れていないだけです」
ノアは、匙の量を少し減らし、もっとゆっくりと、間隔を空けて飲ませ始めた。
治癒師が、ばつが悪そうに、口をつぐんだ。
やがて、煎じた葉の匂いが、部屋にほのかに広がった。侍女が、湯気の立つ椀を、そっと運んできた。ノアは、それを人肌に冷ましてから、少しずつロザの口に運んだ。
一杯、また一杯と、時間をかけて飲ませていく。単調な作業だったが、ノアは、ひとつひとつの動作に、神経を集中させた。
「大丈夫」
ノアは、ロザの耳元で、小さくつぶやいた。
「僕たちの村でも、同じ病を治したことがあります。だから──大丈夫です」
その言葉が、自分自身にも向けられていることに、ノアは気づいていた。
しばらくすると、ロザの浅い呼吸が、わずかに落ち着いてきたように見えた。
だが、まだ熱は高いままだった。
夜が更けるまで、この経過を見守り続けなければならない。
扉の外から、そっと部屋を覗き込む村長の姿が見えた。ノアは、小さく頷いてみせた。まだ何も終わっていない、という意味を込めて。
ノアは、乾いた唇を、そっと舐めた。
長い夜になりそうだった。
ノアが、初めて一人で――正確には、村長やガレンに見守られながらではありますが――薬師としての判断を下す回でした。箱もソラもない状況で、これまで積み重ねてきた経験と知識だけを頼りに動くノアの緊張感を書きたいと思いました。
次話では、ロザの容態がどうなるのか、そして治癒師や領主の反応が描かれます。どうぞお楽しみに。




