第45話 研究室の現実
夜の研究室に、書類の束が積まれていた。
「退職の手続き、ここまで進んだ」
黒川教授が、机の上の書類を、指で示した。
「あとは、大学側の承認待ちだ」
工藤が、端末の画面を睨みながら言った。
「機材の扱いはどうなります。試作機の管理を、個人研究に移すには、それなりの理由づけが要る」
「そこは、私が書く。工藤君は、技術面の引き継ぎ資料を頼む」
「わかりました」
美緒が、資料の束をめくりながら、口を挟んだ。
「データの整理は、私がやります。ノアとのやりとりの記録、全部残さないといけないので」
「頼む」
楓太が、手を挙げた。
「事務手続きの窓口は俺がやります。書類の提出とか、そういうの得意なんで」
「助かる」
黒川が、短く頷いた。
四人それぞれが、自分の役割を静かに確認していた。
これまで研究室として動いてきたものが、少しずつ、形を変えていく。
その変化を、誰も、口には出さなかった。
◇
そこへ、柳瀬先生が、部屋に入ってきた。
眼鏡を押し上げながら、書類の山を見て、小さく息を吐いた。
「順調なのか、これは」
「順調と言えば、順調です」
美緒が答えた。
「ただ、まだ確定ではありません」
柳瀬が、椅子に腰を下ろした。
「一つ、聞いておきたいことがある」
「なんでしょう」
「もし──万が一、接続が切れたら。ノア君の村で、また病が出たとき、どうするつもりだ」
その問いに、部屋の空気が、少しだけ張り詰めた。
工藤が、手を止めた。
美緒も、資料から顔を上げた。
黒川だけが、落ち着いた声で答えた。
「だからこそ、切れない形を作る」
「作れるのか、そんなものが」
「作る。私が、そのために退職を決めた」
黒川の声には、迷いがなかった。
「大学の管理下では、いずれ限界が来る。だが、個人の研究として、私が責任を持つ形にすれば──誰にも、簡単には切らせない」
柳瀬は、しばらく黙って、黒川を見ていた。
それから、小さく笑った。
「相変わらず、無茶をする」
「昔からだろう」
「昔からだ」
柳瀬が、頷いた。
「なら、私も、できることをする。ノア君に、最低限の医療知識を、前もって伝えておこう。何かあったとき、彼一人でも、初動くらいは取れるように」
「助かります」
美緒が、頭を下げた。
◇
「それにしても」
楓太が、時計を見上げて言った。
「ノア、今頃どうしてるんですかね。連絡、取れないんですよね」
「箱を、村に置いてきたからな」
工藤が言った。
「向こうから連絡が来ない限り、こっちからは何もできない」
「大丈夫でしょうか」
美緒の声に、心配がにじんでいた。
「村長さんが一緒だ。無茶なことにはならないはずだ」
黒川が言った。
「だが──ノア君のことだ。何か起きれば、必ず自分で考える」
「それは、そうですけど」
美緒が、窓の外を見た。
こちらは夜。向こうは、今、何時なのだろう。
考えても、答えは出なかった。
◇
境の樹の根元、箱の中で、ソラは静かに稼働していた。
夜の森は、いつもより静かだった。
ノアはいない。ダグもいない。ソラだけが、ここで、留守を守っている。
ふと、センサーの数値が、わずかに変化した。
境の樹の根元、うっすらとした光が、いつもより、ほんの少しだけ強くなっていた。
「これは──」
ソラは、その変化を、静かに記録した。
「記録しておくべき変化です」
誰に伝えるでもなく、ソラは、その言葉を、データと共に残した。
木々のざわめきだけが、夜の森に響いていた。
今回は、研究室サイド多めの回でした。黒川教授の決断を支える、それぞれの動き。そして、ノアの留守を守るソラの静かな時間。
次話では、いよいよ領主との対面です。どうぞお楽しみに。




