第38話 ノアの知らない話
疫病は、ほぼ収まった。
コルソのじいさんは、すっかり起き上がれるようになった。メイも、村の広場で、ティナと一緒に遊ぶ姿が見られるようになった。重症化した患者は、最終的に出なかった。
ばあちゃんも、床から離れて、台所に立てるようになっていた。
「もう、平気だよ」
ばあちゃんが、薄く笑いながら言った。
「無理しないでくれ」
「無理はしてないって、何度も言ってるだろう」
ノアは、その言葉に、少しだけ安心して、肩の力を抜いた。
長い危機が、ようやく終わった。
◇
ノアは知らなかった。
研究室が、大学側の目をかわすために、どれだけのことをしていたかを。
黒川が、退職を早める決断をしたことも。
工藤が、報告書の文面を、何度も書き直していることも。
ノアが知っているのは、ミオたちが毎日、枠の向こうにいてくれることと、ヤナガセが症状を一つ一つ確かめてくれることと、ソラが眠らず記録し続けていることだけだった。
その「知らない」ことを、美緒たちは、意図して隠していた。
◇
「ノアに、言わなくていいんですか」
美緒が、工藤に聞いた。
研究室には、二人だけだった。
「言う必要が出たとき、言う」
工藤が、端末から目を上げずに答えた。
「今は——向こうの仕事に集中させてやれ」
「でも——いつか、知ったら、ショックを受けると思います。私たちが、こんなに大変な状況だったのに、何も言わなかったって」
工藤は、少しの間、黙っていた。
「美緒、お前は——ノアに、これ以上、何を背負わせたいんだ」
その言葉に、美緒は、何も言えなかった。
「ノアは、村のことで必死だった。ハンナさんが倒れて、自分も眠れない夜を過ごした。そのとき——大学のことまで、伝える必要があったか」
「それは——」
「ノアが考えるべきことは、向こう側にある。こっちのことは、こっちで解決する。それが、俺たちの仕事だ」
美緒は、しばらく黙っていた。
それから、頷いた。
「そうですね。——わかりました」
◇
楓太が、報告書の下書きを、もう一度読み返していた。
「工藤さん、これ——本当に、これでいいんでしょうか」
「いい、と決めたのは先生だ」
「わかってます。でも——書けば書くほど、何か、矛盾が出てきそうで」
工藤は、椅子を回して、楓太の方を見た。
「楓太、お前、最近よく考え込んでるな」
「そりゃ、考えますよ。先生が、人生かけてきたものを、手放そうとしてるんですから」
「手放すんじゃない」
工藤が、静かに言った。
「形を変えるだけだ。先生は、これからも研究を続ける。場所と、肩書きが変わるだけだ」
「そうですけど……」
楓太が、下書きの紙を、テーブルに置いた。
「僕、最初は、ノアとの繋がりを、研究の成果として見てたんです。すごい発見だと思って、興奮してた」
「今は?」
「今は——もう、それだけじゃないです。ノアは、友達みたいなものになってる。先生にとっても、そうなんだと思います」
工藤は、何も言わずに、頷いた。
「俺も、同じだ」
それだけ言って、また端末に向き直った。
楓太は、その横顔を見ながら、もう一度、報告書の下書きに目を落とした。
◇
その日の午後、ノアはハンナと二人で、畑に出ていた。
「芽、出てきたな」
「ああ。クドウさんが選んでくれた種、ちゃんと育ってる」
土から、小さな緑の芽が、何本か出ていた。カブと、ニンジンと、それから、名前のわからない苦みのある葉の植物。
ばあちゃんが、しゃがんで、一本の芽を、じっと見つめた。
「これは、こっちの世界にない植物だね」
「うん。ソラに聞いたら、向こうでも珍しいものだって。クドウさんが、選んでくれたらしい」
「クドウさんという人は、優しい人なんだね」
ノアは、少し考えた。
「優しい言い方はしない。でも——優しいことはする」
ばあちゃんが、小さく笑った。
「面白い人だね」
「うん」
二人で、しばらく、黙って芽を見ていた。
◇
そこへ、ティナとダグが、揃ってやってきた。
「ノア、畑の様子、見に来た」
ティナが、しゃがんで芽を覗き込んだ。
「お、出てるじゃん。これがカブ?」
「まだわからない。葉の形だけじゃ、判断できない」
「ふうん。育つの、楽しみだね」
ダグが、少し離れたところから、芽を見ていた。
「俺んちでも、何か育ててみるか」
「ダグも?」
「狩りだけじゃ、食えるものが限られる。野菜があれば、足しになる」
「現実的だな」
「現実的なのが、悪いか」
ダグが、少しむっとした顔をした。ティナが笑った。
「ダグらしいよ、それ」
「らしいって、どういう意味だ」
「考える前に、まず使えるかどうかを考える」
「悪くないだろ」
「悪くないよ」
ノアは、二人のやり取りを聞きながら、ふと思った。
メルの一件から、ダグは変わった。コルソのじいさんのときも、迷わずノアの薬を信じた。それでも——根っこの部分は、変わっていない。現実的で、不器用で、でも誰かのために動ける人間だ。
「ダグ、種、少し分けてやろうか」
「分けてもらえるのか」
「クドウに聞いてみる。足りるかどうか」
「頼む」
ダグが、珍しく素直に言った。
◇
夕方、家に戻ると、村長が来た。
「ノア。一つ、話がある」
その声に、いつもとは違う、何かがあった。
「なに」
「村の外で——お前のことを聞いてきた人間がいた」
ノアの背筋が、少し伸びた。
「旅人か」
「旅人ではない」
村長が、低い声で言った。
「使者だ」
「使者って——」
「領主の使者だ」
その言葉が、ノアの胸の中で、ゆっくりと重さを増した。
旅の薬師とは、違う。行商人とも、違う。領主という言葉は、ノアにとって、ほとんど想像でしかない存在だった。
「何を聞かれたんだ」
「まだ、何も聞かれていない。だが——近いうちに、来る。それだけは、わかっている」
村長が、まっすぐ、ノアを見た。
「準備しておけ。今までとは——少し、違う相手になる」
ノアは、その言葉を、胸の奥にしまった。
外で、夕暮れの光が、ゆっくりと薄くなっていった。
村の中は、まだ平和だった。
でも——その平和の外側で、何かが、確実に近づいてきていた。




