第37話 大学の目
報告書の提出期限が、三日後に迫っていた。
黒川は、研究室に美緒、工藤、楓太を呼んで、自分の机の前に座らせた。
「正直に言う」
黒川が、静かに切り出した。
「試作機は、異常転送によって、現在も稼働している。接続は、維持されている。報告書に、どこまで書くか——君たちとも、考えたい」
美緒が、先に口を開いた。
「中間案を、もう一度確認させてください。転送に成功したこと、接続が維持されていることは書く。でも、相手側の情報——場所も、人物も——書かない」
「それが、限界だろうな」
黒川が、頷いた。
工藤が、腕を組んだ。
「全部書けば、接続を切られる可能性があります。あちらの政府や、軍、あるいは学術界が動く。ノアが、実験対象にされかねない」
「そうだ」
「書かなければ、隠蔽になる」
美緒が、言った。
「それは——長くは続きません」
楓太が、少し考えて言った。
「中間案でも、いつかは限界が来ますよね。相手の情報を書かなくても、『接続が維持されている』ことだけで、追加の調査を求められる可能性がある」
「そうだ」
黒川が、静かに言った。
「それも、わかっている」
研究室の空気が、重くなった。
◇
「もう一つ、考えていることがある」
黒川が、ゆっくりと言った。
「私が、定年退職のタイミングを、早める」
三人とも、すぐには反応できなかった。
「先生、それは——」
美緒が、最初に声を出した。
「退職した研究者の、個人研究として、この接続を継続する。大学の資産ではなく、私個人の研究として」
黒川が、続けた。
「そうすれば、大学は関係なくなる。制度上は」
工藤が、しばらく黙っていた。それから、聞いた。
「先生、それは——本当に、できるんですか」
「試作機の所有権は、もともと大学にある。だが——研究データと、接続の維持に必要な技術的知見は、私個人のものとして整理できる部分もある。完全にクリーンとは言えないが——大学が直接介入できない形を作ることは、可能だと思っている」
「でも、それって——」
楓太が、言葉を選びながら言った。
「先生が、これまで積み上げてきた地位とか、立場とか——全部、手放すことになりませんか」
黒川は、少しの間、何も言わなかった。
それから、静かに笑った。
「楓太君、それは、間違っていない」
「先生——」
「私はもう五十五だ」
黒川が、まっすぐ三人を見た。
「長く研究をやってきた。論文も、学会発表も、地位も、それなりに積み上げてきた。だが——今になって、これほど大事な出会いを前に、それらを優先する理由が、私にはない」
「先生……」
「やれる時間より、やりたいことの方が多い。これは、選択だよ」
その言葉に、迷いがなかった。
美緒は、何も言えなかった。ただ、黒川の目を見ていた。
そこには、研究者としての誇りと、それとは別の——もっと個人的な、温かいものが、両方あった。
◇
「先生、一人で決めないでください」
工藤が、ようやく言った。
「俺たちにも、考える時間をください」
黒川が、少し意外そうな顔をした。
「工藤君」
「先生が、全部一人で抱える必要はない。俺たちも、この研究室の一員です」
楓太も、頷いた。
「僕も、そう思います。先生が大学を離れるなら——僕らも、どうするか考えないと」
黒川は、しばらく黙っていた。それから、ゆっくりと頷いた。
「わかった。だが——これは、君たちの将来にも関わることだ。簡単な決断ではない」
「わかってます」
美緒が、言った。
「だからこそ、一緒に考えたいんです」
◇
その夜、工藤の端末に、また同じ助教からのメールが届いた。
「報告書、もう提出した? 何が書いてあるのか、気になってる人、多いよ」
工藤は、その文面を、しばらく見つめていた。
「楓太」
「なんですか」
「お前、ノアに伝えておいた方がいいと思うか。接続が切られる可能性があるって」
楓太は、すぐには答えなかった。
「……まだ、早いと思います」
「なぜ」
「先生が、まだ決めてないからです。決まってないことを伝えたら、ノアを、余計に不安にさせるだけだと思う」
工藤は、頷いた。
「俺も、そう思う」
「でも——いつかは、伝えないといけませんよね」
「いつかは、な」
工藤は、端末を閉じた。
「だが、今じゃない」
◇
美緒は、その夜も、一人で研究室に残った。
モニターの中、ノアが、ハンナの様子を見ながら、薬草を整理しているのが見えた。
「ソラ、ノアは——大丈夫そう?」
「はい。ハンナさんの回復に合わせて、落ち着いてきています」
「そうか。よかった」
美緒は、椅子に深く腰掛けた。
「ソラ、私たちは——正しいことをしてるのかな」
ソラが、少し間を置いて答えた。
「わかりません」
その答えは、いつものソラらしい、誠実なものだった。
「でも——美緒さんたちは、毎回、迷いながら、選んでいます。それは、正しい人のすることだと思います」
美緒は、その言葉に、少しだけ救われた気がした。
「ありがとう、ソラ」
窓の外は、すでに夜が深かった。
研究室の灯りだけが、消えずに残っていた。
明日、黒川がどんな決断を伝えるのか——美緒には、まだわからなかった。




