第36話 ハンナの言葉
箱を台所に置いて、蓋を開けた。
ばあちゃんが、布団の上で、少し体を起こしていた。隣に、ノアが座った。
「ソラ、ミオを呼んでくれるか」
「はい。少々お待ちください」
しばらくして、枠が明るくなった。ミオの顔が見えた。それから——美緒は、誰かに何か言っているようだった。
「ミオさん」
ばあちゃんが、静かに呼んだ。
美緒が、少し驚いた顔をした。
「ハンナさん。体は、大丈夫ですか」
「おかげさまで、楽になってきたよ。今日は——お礼を言いたくて」
ばあちゃんが、ゆっくりと言葉を続けた。
「あなたたちが、ノアを——一人じゃないと思わせてくれた」
枠の向こうで、美緒が、じっと聞いていた。
「あの子は、長いこと、一人だった。魔力のない自分を責めて、役に立てないと思って、知識だけ抱えて——一人だった」
ノアは、何も言わずに、ばあちゃんの横に座っていた。
「あなたたちが来てから——あの子の目が、変わった。知識を持っていてよかったと、初めて思えた顔になった。それを、ありがとう」
枠の向こうに、工藤と楓太の姿も見えた。少し離れた場所に、黒川教授もいた。誰も、何も言わなかった。ただ、静かに聞いていた。
美緒が、少し目を細めた。
「私たちも、ハンナさんに同じことを言わせてください」
「私に?」
「ハンナさんが話してくれた知識は——ノアの植物の知識と並んで、私たちにとって、本当に大切なものになっています。ハンナさんが話してくれなければ、今回も対処できていなかった」
ばあちゃんが、少し驚いた顔をした。
「私の知識が、そんなに」
「そんなにです」
工藤が、横から、短く言った。
「赤黒い点の症状、薬草の組み合わせ、過去の流行病の記憶——全部、ハンナさんの中にあったものです。それがなければ、診断にも、薬の調合にも、もっと時間がかかってた」
「時間がかかれば——」
「コルソさんや、メイちゃんの状態が、もっと悪くなっていたかもしれません」
ばあちゃんが、しばらく黙っていた。
それから、ゆっくりと笑った。
「そうか。じゃあ——お互いさまだね」
「お互いさまです」
美緒が、頷いた。
◇
黒川が、その様子を、後ろで黙って見ていた。
何も言わなかったが、その目は、ずっと穏やかだった。
楓太が、小さく黒川に声をかけた。
「キョウジュ、何か言いたいことありますか」
黒川は、少しの間、考えていた。
「いや——今は、いい。十分だ」
それだけだった。
ノアは、その様子を見ていて、なんとなく思った。キョウジュは、こういうとき、いつも言葉を選んでいる。すぐに何か言うより、まず、見ることを優先する人なんだと。
◇
「ノア」
ばあちゃんが、ノアの方を向いた。
「お前にも、言っておきたいことがある」
「なに」
「私が倒れたとき、お前は、すぐに動いた。怖がりながらも、薬を作って、ちゃんと飲ませた」
「あれは——」
「あれは、お前にしかできなかったことだ」
ばあちゃんが、はっきりと言った。
「私がお前に教えたことを、お前は、確かに受け継いでいた。それを、今日、確かめられた」
ノアは、何も言えなかった。
ただ——胸の中が、温かくて、少し苦しかった。
「ありがとう、ばあちゃん」
「礼を言うのは、私の方だよ」
ばあちゃんが、ノアの頭に、軽く手を置いた。
「お前がいなければ、私は、ここにいなかったかもしれない」
その言葉を、ノアは、ずっと覚えておきたいと思った。
◇
その夜、ヤナガセが、一人で研究室に残った。
ノアが、箱の前に座っていると、枠の向こうに、ヤナガセだけがいた。
「ノア君、一つだけ聞いていいか」
「なに」
「君の世界には、私のような医者がいないのか」
ノアは、少し考えた。
「イシャという人はいないけど、けがや病気の人を治すのは、治癒魔法を使える人がやる。でも、強い人は、街にしかいない」
「そうか」
ヤナガセが、少しの間、黙っていた。
「なら——私が、できることをするよ。場所が違っても」
ノアは、その言葉の重さを、すぐには測れなかった。
「ヤナガセは、忙しいんじゃないのか」
「忙しい。だが——忙しさは、理由にはならない」
ヤナガセが、眼鏡を少し直した。
「私は、病を治すイシャだ。病に苦しむ人がいて、それを助ける方法がある。距離や、世界の違いは、関係ない」
「ありがとう、ヤナガセ」
「礼を言われるようなことじゃない。これは、私が選んだことだ」
その言い方が、ばあちゃんの言葉と、少し似ている気がした。
選んでやっている。誰かに押しつけられたわけじゃなく、自分で選んでいる。
それが——本当に大事なものを、続けていく力なのかもしれない。
◇
枠を閉じる前に、ヤナガセが、もう一言、付け加えた。
「ノア君、今回のこと——よくやった」
「僕一人じゃない」
「わかっている。だが、君がいなければ、誰も動けなかった」
ノアは、少し照れたように、頷いた。
枠の明かりが落ちて、台所が静かになった。
ばあちゃんは、もう眠っていた。穏やかな呼吸が、規則的に続いていた。
ノアは、その様子を見ながら、箱を膝の上に置いた。
長い危機が、ようやく終わろうとしていた。
でも——それは、終わりではなく、また別の始まりだということを、ノアはまだ知らなかった。




