第35話 夜を越える
夜は、なかなか進まなかった。
ノアは、ばあちゃんの傍を離れなかった。布を絞り直し、額に当て、また絞り直す。その繰り返しを、何度も続けた。
ソラが、時々、静かに声をかけてきた。
「ノア、体温を確認しますか」
「頼む」
「先ほどと、ほぼ同じです。悪化はしていません」
「良くなってもいない、ってことか」
「そうです」
悪くなっていない。それだけでも、今は救いだった。でも——良くなる兆しが見えないことが、別の不安を連れてきた。
「ソラ、薄ら寒い気がするんだけど、ばあちゃんはどうだ」
「体温が高いので、寒さは感じにくいかもしれません。ただ、念のため、布団を確認してください」
ノアは、布団の隅を、ばあちゃんの肩までしっかりかけ直した。
◇
明け方近く、枠に小さな明かりが灯った。
「ノア」
ミオの声だった。眠そうな声ではなかった。むしろ、起きていたような声だった。
「ミオ……起きてたのか」
「うん。今日は、誰も帰らなかった」
ノアは、その言葉に、少しだけ胸が温かくなった。
「眠れてる?」
ミオが聞いた。
「眠れない」
「そうだね」
それだけだった。
ミオは、何も特別なことを言わなかった。アドバイスもしなかった。ただ——枠の向こうに、いてくれた。
「ミオ」
「うん」
「何も言わなくていいから。ただ、そこにいてくれ」
「うん。ここにいる」
ノアは、ばあちゃんの手を握ったまま、枠を見た。ミオも、何も言わず、画面の向こうで座っていた。
言葉が少ないことが、こんなに心強いと、知らなかった。
◇
東の空が、わずかに白んできた頃、ばあちゃんの呼吸が、少し変わった。
「ばあちゃん?」
ノアは、慌てて顔を近づけた。
ばあちゃんが、ゆっくりと目を開けた。
「……ノア」
声が、少し、はっきりしていた。
「ばあちゃん、わかるか」
「わかるよ。お前の声が、ずっと聞こえてた」
ノアは、額に手を当てた。
熱が、少し下がっている気がした。
「ソラ、確認してくれ」
「確認します。……体温が、下がっています。先ほどより、明確な変化です」
「ばあちゃん、楽になってきたか」
ばあちゃんが、薄く笑った。
「……楽に、なってきた」
その言葉に、ノアの中で、何かが崩れた。涙が、止まらなくなった。
「ばあちゃん」
「泣くな、ノア。まだ、治ったわけじゃないよ」
「うん。でも——」
「でも、いい兆候だ。そうだろう」
「うん」
ノアは、涙を拭わずに、頷いた。
◇
朝が来た。
村全体でも、昨日より症状が重くなった人が出ていなかった。コルソのじいさんは、起き上がって、自分で水を飲めるようになった。メイも、熱が少し下がった。
ダグが、広場に立って、村人に薬の飲み方を伝えていた。慣れない手つきだったが、丁寧に説明していた。
ティナは、水の準備を手伝いながら、家々を回っていた。
村長は、村人に安静を促し、不安を抑えていた。
誰も、ノアに「あの薬は何だ」と問い詰めなかった。「出来損ない」と呼ぶ人も、もういなかった。
それぞれが、自分にできることをやっていた。
ノアは、ばあちゃんの傍に座って、その様子を、窓の外から見ていた。
「これは——みんなでやった」
声に出さず、そう思った。
◇
昼前、ばあちゃんが、少し起き上がれるようになった。
「ノア、水を、一杯くれるか」
「うん」
水を渡すと、ばあちゃんはゆっくりと飲んだ。手が、まだ少し震えていたが、自分で持てるくらいには戻っていた。
「ばあちゃん」
「なんだい」
「もう、無理しないでくれ」
ばあちゃんが、少し笑った。
「無理はしてないよ。ただ、年だから、こうなることもある」
「年のせいじゃない。ばあちゃんが、僕とソラのために、いろいろ話し続けてくれてたから——」
「それは違うよ、ノア」
ばあちゃんが、はっきりと言った。
「あれは、私がしたかったことだ。お前のためだけじゃない。私自身のためでもある」
「ばあちゃんのため、って」
「私の知識が、誰かの役に立つ。それが、嬉しかったんだよ。お前が、薬師見習いになったときと、同じようにね」
ノアは、その言葉を、胸の中で繰り返した。
「だから——心配しなくていい。私は、自分で選んでやってたことだ」
ばあちゃんが、ノアの手を、逆に握り返した。
「ノア。もう一つ、頼んでいいか」
「なんでも」
「ミオさんに——お礼を言っておくれ。私の口から」
「今すぐ呼んでくる」
ノアは、台所の隅から、箱を持ってきた。
枠を開く前に、少しだけ、深呼吸した。
長い夜が、ようやく終わった。
朝の光が、台所の窓から、静かに差し込んでいた。




