第34話 ハンナが倒れた
その朝、ノアは台所の物音で目を覚ました。
椅子が、床に倒れる音だった。
「ばあちゃん!」
駆け寄ると、ばあちゃんが床にうずくまっていた。額に手をやると、燃えるように熱かった。
「ばあちゃん、聞こえるか」
「……ノア」
声が、かすれていた。目を開けているが、いつもより力がない。
頭が、一瞬、真っ白になった。
三年前の朝が、記憶の底から浮かび上がってきた。母が倒れた朝。治癒魔法が届かなかった朝。何もできなかった、あの感覚。
でも——違う。
今は、違う。
ノアは、震える手で、台所の隅の箱に駆け寄った。蓋を開ける。
「ソラ! 急ぎだ!」
「聞こえています。誰を呼びますか」
「ミオ! 誰でもいい、早く!」
枠が明るくなった。ミオの顔だった。
「ノア、どうしたの——」
ノアは、一言だけ言った。
「ばあちゃんが、倒れた」
枠の向こうが、一瞬、静かになった。
それから、ヤナガセの声が、すぐに来た。
「ノア君、今すぐ教えてください。症状の出始めはいつですか」
「わからない。今、僕が起きたときには、もう倒れてた」
「熱は」
「すごく熱い。普通じゃない」
「他の症状は。発疹、関節の痛み——」
ノアは、震える手でばあちゃんの脚に触れた。布をめくる。
脚の付け根に、赤黒い点が、いくつもあった。
「あった。あの点が、ある」
「わかった。間違いない。すぐに薬を」
◇
ノアは、台所の戸棚から、作っておいた薬の包みを取り出した。
手が、震えていた。
「ばあちゃん、飲んで」
ばあちゃんが、薄く目を開けた。
「……お前が作ったのかい」
「うん」
「怖くないのか」
ノアは、唇を噛んだ。
「怖い」
正直に言った。隠す余裕は、もうなかった。
「でも——ヤナガセと、ミオと、クドウと、ソラと一緒に作った。一人じゃない」
ばあちゃんが、少しの間、ノアを見ていた。
それから、薄く笑った。
「そうか。じゃあ、安心だ」
ばあちゃんが、薄い唇で、薬を飲んだ。
ノアは、その様子を見届けて、ばあちゃんの傍に座った。動かなかった。
◇
「ノア君、量は問題なかったか」
「ソラが確認した。指示通りだった」
「わかった。これから、しばらく経過を見よう」
ヤナガセの声は、いつもより低かった。
ミオが、横から言った。
「ノア、ハンナさんの様子、ずっと見てるから。何かあったら、すぐ言って」
「うん」
クドウの声も、続いた。
「ノア、お前は——今、何が一番怖い」
ノアは、少し考えた。
「ばあちゃんが、母さんみたいになることが、怖い」
枠の向こうが、静かになった。
「それは、当然の怖さだ」
クドウが、静かに言った。
「だが——今のお前は、三年前のお前じゃない。薬がある。知識がある。一緒に考える人間がいる。それが、違う」
「わかってる。でも——怖いことに、変わりはない」
「怖くて当然だ。怖くないやつの方が、おかしい」
その言葉が、少しだけ、胸の重さを軽くした。
◇
昼が過ぎても、熱は下がらなかった。
ばあちゃんは、時々浅い眠りに落ちて、また目を覚ました。意識はあった。でも——明らかに、つらそうだった。
ノアは、ばあちゃんの額に、濡れた布を当てた。何度も、絞り直した。
「ノア」
ばあちゃんが、薄く声を出した。
「なに」
「お前の母さんも——こうだったんだろうね」
ノアは、息を止めた。
「……うん」
「あのとき、お前は、何もできなかったと思ってる」
「思ってる」
「でも、本当は——お前は、何もできなかったわけじゃない。母さんのそばにいた。それだけで、母さんは——一人じゃなかった」
ノアの目に、涙がにじんだ。
「今もそうだよ」
ばあちゃんが、続けた。
「お前が、私のそばにいる。それだけで——私は、一人じゃない」
「ばあちゃん」
「だから、安心して。私は、まだ、ここにいるよ」
ノアは、ばあちゃんの手を握った。骨ばった、温かい手だった。
◇
午後、ダグとティナが、家を訪ねてきた。
ダグが、戸口で聞いた。
「ハンナさんは——」
「熱が、まだ下がってない」
ティナが、何も言わずに、家の中に入った。水の入った桶を持っていた。
「これ、使って。布を冷やすのに」
「ありがとう」
ダグが、外で何かを言いかけて、止めた。
「ノア、村の方は——コルソのじいさんと、メイは、二人とも落ち着いてる。お前は、ハンナさんに集中してくれ」
「うん」
「他のことは、俺たちが見る」
ダグが、それだけ言って、戸口を離れていった。
任せられる部分は、任せていい。
ミオが言った言葉を、思い出した。今、それを、実際にやっている。
◇
夕方、村長も来た。
ばあちゃんの様子を見て、何も言わずに、しばらく立っていた。
「ノア」
「なに」
「私にできることはあるか」
「今のところ、ない。薬は使った。あとは——様子を見るしかない」
村長が、頷いた。
「他に必要なことがあれば、いつでも言え」
「ありがとう」
「礼はいい」
その言葉に、ノアは、少しだけ笑いそうになった。こんなときでも、村の人は、みんな同じことを言う。
村長が帰ったあと、家の中は、ノアとばあちゃんだけになった。
枠の中で、ミオの声が、静かに聞こえた。
「ノア、今日はもう、夜になるね」
「うん」
「眠れそう?」
「眠れないと思う」
「そうだよね」
ミオが、少しの間、何も言わなかった。それから、静かに言った。
「私たちも、ここにいるから」
◇
夜が来た。
熱は、まだ下がらなかった。
ノアは、箱の前で、膝を抱えて座っていた。
「ソラ」
「はい」
「ばあちゃんを、守れるか」
ソラが、少しの間、答えなかった。
「わかりません」
正直な答えだった。
「でも——やれることを、全部やっています」
ノアは、何も言えなかった。ただ、頷いた。
外で、虫の声が、静かに鳴いていた。
ばあちゃんの呼吸が、浅く、続いていた。
夜は、まだ長かった。




