第33話 外からの波
夜明け、ダグの声が、ソラを通じて届いた。
「ノア、コルソのじいさん、少し楽そうだ。目を開けて、水を飲んだ」
ノアは、台所の椅子で、その言葉を聞いた。一晩、起きていた体に、ようやく力が抜けた。
「ありがとう、ダグ」
「礼はいい」
短い言葉だったが、十分だった。
その朝——同じ時刻、研究室では、別の波が動き始めていた。
◇
「黒川先生、学部長室まで来てください」
事務からの連絡を受けて、黒川は静かに席を立った。
「行ってくる」
美緒、工藤、楓太の三人は、研究室に残った。
「先生、一人で大丈夫ですか」
楓太が、心配そうに言った。
「大丈夫だ。これは——私の問題だ」
黒川は、それだけ言って、研究室を出た。
ドアが閉まったあと、しばらく誰も何も言わなかった。
「ノアの方は、コルソさんの容態が改善してるみたいですね」
楓太が、モニターを見て言った。
「ダグくんの報告、ちゃんと届いてる」
「良かった」
美緒が、小さく息をついた。
「でも——こっちは、まだ何も終わってない」
工藤が、端末を見ながら言った。
◇
学部長室で、黒川は一時間ほど話していた。
戻ってきたとき、その顔には、はっきりとした疲労が見えた。
「先生、どうでしたか」
美緒が、すぐに聞いた。
「学部長は、試作機が消えた実験について、正式な報告書を提出するよう求めてきた」
黒川は、椅子に座りながら言った。
「予算の使途、研究の進捗、試作機の現状——すべて、文書で説明しろと」
「猶予は」
「二週間だ」
その言葉に、研究室の空気が変わった。
楓太が、思わず言った。
「二週間って——」
「短い。わかっている」
黒川が、静かに言った。
「だが、学部長としては、当然の要求だ。試作機がなくなって、それでも研究が続いている。説明がなければ、誰だって疑う」
工藤が、腕を組んだ。
「全部書けば、接続を切られる可能性がある」
「そうだ」
「書かなければ」
「隠蔽になる。長くは続かない」
美緒が、声を落として言った。
「中間は、ないんですか」
「中間?」
「転送に成功したこと、接続が維持されていることは書く。でも、相手側の情報——場所も、人物も——書かない。それなら、嘘ではないですよね」
黒川は、少しの間、美緒を見ていた。
「それが、限界かもしれないな」
◇
その日の午後、工藤の端末に、また別のメールが届いた。
差出人は、同じ助教だった。
「黒川研、報告書出すんだって聞いた。今度こそ、何があったのか分かるんじゃないか?」
工藤は、画面を見つめたまま、しばらく動かなかった。
「楓太」
「なんですか」
「お前、ノアに伝えておいた方がいいと思うか。接続が切られる可能性があるって」
楓太は、すぐには答えなかった。
「……正直、わかりません。でも——最悪を想定しておくのは、必要だと思います」
「美緒は、何て言うと思う」
「『まだ早い』って言うと思います」
工藤は、頷いた。
「俺も、そう思う」
「でも、いつかは——」
「いつかは、言わなきゃならん。だが、今じゃない」
工藤が、端末を閉じた。
「今、ノアは村のことで必死だ。こっちの問題まで背負わせるのは——違う」
楓太は、何も言わなかった。ただ、その判断に、納得していた。
◇
夜、美緒が一人で研究室に残っていた。
モニターの中、ノアが眠っている様子が、わずかに見えた。台所の椅子で、頭を少し傾けて、眠っているらしい。
「ソラ、ノアは眠れてる?」
「はい。穏やかに眠っています」
「そうか……よかった」
美緒は、ため息をついた。
「ソラ、私たちは、正しいことをしてるのかな」
ソラが、少し間を置いて答えた。
「わかりません。でも——美緒さんたちは、毎回、迷いながら、選んでいます。それは、正しい人のすることだと思います」
美緒は、その言葉に、少しだけ救われた気がした。
「ありがとう、ソラ」
「いえ」
そのとき、研究室のドアが開いた。黒川だった。
「まだ、いたのか」
「先生も」
黒川は、ノアのモニターを見ながら、静かに椅子に腰掛けた。
「美緒君、一つ、考えていることがある」
「なんですか」
「報告書の件だ。中間の案——君が言ったやり方は、悪くないと思う。だが、それだけでは、いつか限界が来る」
「限界、というのは」
黒川は、少しの間、黙っていた。
「私が、もし——大学を離れたら、どうなると思う」
美緒は、その問いの意味を、すぐには理解できなかった。
「先生、それは——」
「考えているだけだ。まだ、決めたわけじゃない」
黒川は、それ以上は言わず、ただモニターの中のノアを見ていた。
その横顔には、これまで見たことのない種類の覚悟が、静かに浮かんでいた。
◇
翌朝、ノアが目を覚ましたとき、箱から小さな音がした。
「ノア、おはようございます」
ソラの声だった。
「おはよう、ソラ。コルソのじいさんは——」
「ダグさんから、報告が来ています。今朝も、落ち着いているそうです」
ノアは、安心して、肩の力を抜いた。
「ミオは?」
「今日は、少し遅れるそうです。研究室で、別のことが起きているようです」
「別のこと?」
「詳しくは、私からは言えません。ミオから直接、話があると思います」
ノアは、その言葉に、わずかな違和感を覚えた。
ソラが、何かを隠している。
そう感じたのは、初めてのことだった。




