第29話 嵐の中の研究室
研究室は、いつもより灯りが多かった。
夜になっても、誰も帰らなかった。美緒は、コーヒーを三杯目作りながら、モニターの向こうの村の様子を見ていた。布の隙間からの映像は不安定だったが、メイという女の子が布団に伏せっている様子が、かろうじて見えた。
「柳瀬先生、追加で何か必要なものは」
「今はない。ノア君の報告を待つしかない」
柳瀬が、椅子に深く腰掛けて言った。眼鏡を外して、目元を押さえている。
「ただ——もう一人、発症者が出たら、ほぼ確定だと思う」
工藤が、端末から顔を上げた。
「もう一人出てほしくはないが」
「ああ。私もだ」
柳瀬が、短く言った。
楓太が、コーヒーを美緒に渡しながら言った。
「先生、こういう判断って、いつもこんなに苦しいものなんですか」
「いつもだ」
柳瀬が、即答した。
「症例が少ないうちは、確定診断ができない。だが、確定診断を待っていれば、対処が遅れる。医者の仕事は、いつもこの板挟みだよ」
「そうなんですね……」
「楓太君、これは特別なことじゃない。普通の病院でも、同じことが毎日起きている。ただ——ここでは、私が一人で全部判断しなければならない。それが、いつもと違う」
美緒は、柳瀬の横顔を見た。疲れている。けれど、ここで投げ出す気配は微塵もなかった。
◇
その頃、別の問題が、研究室の隅で静かに動いていた。
工藤の端末に、学内のメールが届いていた。差出人は、別の研究室の助教だった。
「黒川研の試作機、結局見つかってないんだろ。なのに、お前らずっと研究室に詰めてるって聞いたけど。何か進展あったのか?」
工藤は、しばらくその文面を見つめていた。
返信せずに、画面を閉じた。
「工藤さん、どうしました?」
楓太が、横から声をかけた。
「いや——なんでもない」
「顔が、なんでもないって顔じゃないですけど」
工藤は、少し黙ってから言った。
「他の研究室から、メールが来た。試作機の件で、探りを入れられている」
楓太の表情が、変わった。
「探りって——」
「直接的な質問じゃない。でも、こっちが何かを隠していると、薄々感じているような書き方だった」
美緒が、コーヒーを置いた。
「黒川先生に、伝えた方がいいですよね」
「もう伝えた」
工藤が、端末を閉じた。
「先生は、『想定していたことだ』とだけ言ってた」
◇
黒川は、自分の研究室の隅で、報告書らしき書類に向かっていた。
夜が深まる中、誰にも声をかけられず、ただ一人で紙の上にペンを走らせていた。
しばらくして、楓太がそっと近づいた。
「教授、お茶を持ってきました」
「ああ、ありがとう」
黒川が、ペンを止めて顔を上げた。
「楓太君。一つ、聞いてもいいか」
「なんですか」
「君は、この研究が大学に知られたら、どうなると思う」
楓太は、少し考えた。
「最悪——接続を切られる、ですよね」
「そうだ。私もそう思っている」
黒川が、ペンを置いた。
「学部長から、試作機の所在と研究の進捗について、正式な報告を求められている。猶予は、二週間だ」
楓太の顔から、血の気が引いた。
「二週間……」
「短いと思うか」
「短いです。それに——」
楓太が、言葉を選びながら言った。
「今、ノアの村は、疫病の対応で大変な時期です。こんなときに、接続のことで頭を割かれるのは——」
「わかっている」
黒川が、静かに言った。
「だからこそ、今は誰にも、村の感染症のことに集中してもらいたい。私が一人で、報告書のことは考える」
「先生一人で全部抱えるのは——」
「楓太君」
黒川が、まっすぐ見た。
「私はもう五十五だ。長く研究をやってきた。今になって、これほど大事な判断を、誰かに丸投げするつもりはない。それは、研究者としての最後の意地だと思ってくれ」
楓太は、何も言えなかった。
ただ、黒川の目に、迷いがないことだけは、はっきりわかった。
◇
「先生、感染症の方の状況、もう一度確認させてもらえますか」
美緒が、柳瀬に声をかけた。
「もちろん」
柳瀬が、画面のメモを開いた。
「現状、発症が確定しているのはメイちゃん一人。羊と鳥にも同様の症状。ノア君が見つけたネコタビ草の枯死も、時期的に一致している。ハンナさんの記憶にある『昔の病』も、症状が似ている」
「動物由来の感染症だと、断定していいですか」
「断定はできない。だが、その方向で対処を進めるのが、合理的だと思う」
「もし違ったら」
「違った場合のリスクも考えている。今、私が考えている対処法は、比較的安全性の高いものだ。間違っていても、大きな害は出にくい」
美緒は、頷いた。
「センサーによる分析なしで、症状だけから絞り込むのは——難しいですよね」
「難しい。ただ——ノア君の観察力が、想像以上に正確だ。羊の症状、鳥の症状、植物の異変。普通の村人が見過ごすようなことを、彼は全部見ている」
柳瀬が、少し口元を緩めた。
「あの子がいなければ、ここまで絞り込めなかった」
工藤が、端末から顔を上げて言った。
「ノアの観察を、もっと活かす方法があるかもしれない」
「どういうことですか」
楓太が聞いた。
「センサー分析ができない以上、観察で診断を確定させるしかない。なら——もっと体系的に、ノアに見てきてもらう項目を整理すればいい」
柳瀬が、少し驚いた顔をした。
「それは、悪くない発想だ。動物由来の感染症なら、感染源の動物に、特定の症状パターンが出るはずだ」
「ノアなら、村の人間より詳しく動物を観察できる」
工藤が、続けた。
「森の動物の状態、家畜の症状、植物の異変——それらを系統立てて確認させれば、センサーがなくても、診断の手がかりが集まる」
楓太が、身を乗り出した。
「それ、僕が項目をまとめます。ノアに伝えやすいように」
「頼む」
工藤が、短く言った。
美緒は、二人のやりとりを見ながら、少しだけ、肩の力が抜けた気がした。
研究室は揺れている。大学の目も、感染症の不確かさも、黒川の決断も——全部が重なって、空気が重い。
でも——今、ここにいる人間は、誰も諦めていない。
「柳瀬先生」
美緒が、声をかけた。
「明日の朝、もう一度ノアと話してもらえますか。観察の項目を、整理して伝えたいので」
「もちろんだ」
柳瀬が、頷いた。
「私も、できることを全部やる。それが——あの子に対する、誠意だと思っている」
窓の外は、すでに真夜中だった。
研究室の灯りだけが、消えずに残っていた。




