第28話 名前のない病
コルソの孫娘——五歳のメイが、朝から頭が痛いと泣いていた。
熱もある。コルソのじいさんが慌てて、生活魔法の使える隣人を呼んだ。簡単な治癒の灯りを当ててもらったが、熱は下がらなかった。
ノアがその話を聞いたのは、薄い朝靄の中、薬草を採りに出ようとしたときだった。
「メイが?」
「ああ。さっき、コルソんとこの嫁が水を汲みに来て、話してた」
近所の女が、心配そうに言った。
「羊と同じ病かね」
ノアの足が、自然と速くなった。
◇
コルソの家に着くと、メイは布団の中で小さくうずくまっていた。頬が赤い。額に手を当てると、明らかに熱があった。
「頭が痛い……」
「いつから?」
「朝起きたときから」
コルソの嫁が、震える声で答えた。
「夜は何も。普通に眠ってた」
ノアは、できる範囲で確認した。発熱。頭痛。手足を触ってみると、関節のあたりを痛がる様子があった。下痢はない。吐き気もない。
水のときとは違う。
「他に変わったことは?」
「特には……ああ、でも——コルソさんの羊小屋の方に、昨日も行ってたわ。あの子は羊が好きで」
羊から、人へ。
確信に近いものが、胸の中で固まった。
「すぐ戻る」
ノアは家を飛び出した。
◇
森へ走った。境の樹の根元で、震える手で箱を取り出す。
「ソラ、急いで頼む」
「聞こえています。誰を呼びますか」
「誰でもいい。早く」
枠が明るくなった。ミオの顔だった。
「ノア、どうしたの——」
「メイが、頭が痛いって。熱もある。コルソのじいさんの羊小屋によく行ってた子だ」
ミオの顔が、すっと引き締まった。
「他の症状は」
「関節が痛いって。下痢はない。吐き気もない」
「わかった。柳瀬先生に連絡する。少し待って」
待っている間も、頭の中で考えが回り続けた。羊。鳥。ネコタビ草。そしてメイ。全部が、一つの線でつながっている気がする。でも——線がつながっているだけでは、何も治せない。
枠の向こうで人が増えていくのが見えた。クドウが来た。楓太も来た。最後に、ヤナガセが顔を出した。
「ノア君、状況を教えてくれ」
ノアは、メイの症状をもう一度、できるだけ正確に伝えた。発症の時間。熱の程度。痛みの場所。羊との接触。
ヤナガセが、矢継ぎ早に質問してきた。
「発疹は出ているか」
「見てない。確認してくる」
「年齢は?」
「五歳」
「他に発症している人間は?」
「メイだけ、今のところは」
「動物の症状と、似た時期に始まっているな」
ヤナガセが、誰にともなく呟いた。それから、ノアに向かって言った。
「ノア君、可能性の話をする。断言はできない。動物由来の感染症の中には、人にも感染するものがある。羊、鳥、そして特定の植物の異変——これは、ある種の感染症の流行で見られるパターンに近い」
「どんな病気だ」
「名前を言っても、君には分からないと思う。ただ——人から人への感染ではなく、動物から人への感染なら、広がり方が違う。村全体に広がる前に、止められる可能性がある」
「治せるのか」
「対処法はある。だが——今の段階では、確信が持てない。もう少し情報が欲しい」
ノアは、唇を噛んだ。
もう少し情報が欲しい、という言葉が、今は重く感じられた。メイは、今この瞬間も布団の中で痛がっている。
◇
「ノア、落ち着いて」
ミオが、画面の向こうから言った。
「焦る気持ちはわかる。でも——間違った薦めをして、メイちゃんに合わない治療をしてしまったら、もっと危険になる」
「わかってる」
「柳瀬先生は、今、必死で考えてる。私たちも」
クドウが、端末を見ながら言った。
「センサーで、メイの周辺の空気や、羊小屋の状況を分析できれば、もっと早く絞り込める」
「箱を、村に持っていくのか」
「そうだ。だが——」
クドウが、少し言葉を切った。
「お前が今、それをやっていいのか、俺には判断できない。旅の薬師が来たばかりで、村の人間の目もある中で、箱を持ち歩くことが、どれくらいの危険になるか」
ノアは、考えた。
箱を使いたい。今すぐ、メイのそばで、ソラのセンサーを使えれば、もっと早く何かが分かるかもしれない。
でも——使えば、見られるかもしれない。誰かに、何が起きているのか気づかれるかもしれない。
クドウとの会話を思い出した。
箱より、人の方が大事。だから人を守るためなら、箱を手放せる。
でも、今は——箱を使うことが、人を守ることにつながるかもしれない。
「ミオ、クドウ。一つ、頼みがある」
「なに」
「箱を持っていく。メイの家に。でも——誰にも見られないように、できるだけ気をつける。今は、それしかできないと思う」
クドウが、少しの間、黙っていた。
「お前が決めるなら、それでいい。だが——条件がある」
「なに」
「布の中に入れて、隠して運べ。家の中でだけ出せ。窓は閉めろ。誰かが来たら、すぐにしまえるようにしておけ」
「わかった」
ミオが、心配そうな顔で言った。
「ノア、無理しないで。怖くなったら、すぐ言って」
「ありがとう」
枠を一旦閉じた。
ノアは、台所の戸棚から、古い布を取り出した。ばあちゃんが、薬草を運ぶときに使っているものだ。箱をその布で丁寧に包んで、肩掛け袋にしまった。
外は、まだ昼前だった。村の人通りは多い時間だ。
でも——今は、迷っている時間がなかった。
◇
メイの家に着くと、コルソの嫁が出迎えた。目が赤くなっていた。
「ノア、ありがとう。来てくれて」
「中に入ってもいいか」
「もちろん。どうぞ」
部屋の中、メイはまだうずくまっていた。さっきより、少し顔色が悪い気がした。
ノアは、布に包んだ箱を、目立たない位置——棚の隅に、布をかけたまま置いた。窓は、すでに閉まっていた。
「ソラ、聞こえるか。声を小さくしてくれ」
「聞こえています。声量を調整しました」
「メイの様子を、見えるか」
「布の隙間から、カメラが状況を捉えています。記録しています」
しばらくして、ヤナガセの声が小さく聞こえた。
「ノア君、メイちゃんの呼吸の速さを教えてくれ」
ノアは、メイの傍に膝をついて、できる限り近くで様子を確かめた。胸の動き。額の汗。手足の動き。
「速い。普通より速い気がする」
「発疹は」
「ない。まだない」
「わかった。少し待ってくれ」
ヤナガセの声が、しばらく途絶えた。研究室の方で、何かを相談しているらしかった。
ノアは、メイの手を握った。小さな手だった。汗ばんでいた。
「メイ、大丈夫だぞ」
「……お兄ちゃん」
「うん」
「痛い」
「わかってる。今、頑張ってる人がたくさんいる」
「誰が」
「すごく遠くにいる、お医者さんと、僕の友達」
メイが、少し目を開けた。
「遠くって、どこ」
「すごく遠く。でも——ちゃんと、繋がってる」
メイが、何か言おうとして、また目を閉じた。
ノアは、その小さな手を握ったまま、枠の方を見た。
布の隙間から、わずかに光が漏れていた。
しばらくして、ヤナガセの声が戻ってきた。
「ノア君。今分かっていることを伝える。動物由来の感染症の可能性が高い。だが——確定するには、もう少し症例を見る必要がある」
「もう少し、というのは」
「他に発症する人間が出るかどうか、ということだ。残酷な言い方だが——一人の症例だけでは、判断材料が足りない」
ノアの胸が、重くなった。
「待つしかないのか」
「今は、そうだ。すまない」
ヤナガセの声が、珍しく低く、申し訳なさそうだった。
「私たちは——医者じゃない」
その言葉が、研究室の方から聞こえた気がした。クドウの声だったのか、楓太の声だったのか、ノアにはわからなかった。
ただ——その言葉の重さは、よくわかった。
メイの呼吸が、布団の中で、小さく続いていた。
外の光が、少しずつ翳ってきていた。




