第27話 最初の兆し
コルソのじいさんは、羊小屋の前にしゃがんで、一頭の羊の首のあたりを確かめていた。
「じいさん」
顔を上げた。目の周りが、少し疲れていた。
「ノアか。見てたか」
「外に出てる何頭か、様子がおかしい」
「ああ。二日前から、何頭かが食欲をなくした。熱があるのかもしれん。触ると、体が少し熱い気がする」
「草は食べてるか」
「食べない。水も、あまり飲まない」
ノアは、群れの様子をもう一度見た。
元気のある羊と、そうでない羊が、はっきり分かれていた。元気のない羊は、頭を下げたまま動かない。目がぼんやりしている。
「何頭くらいだ」
「三頭。でも、昨日より一頭増えた」
広がっている、ということか。
「他に、変わったことはなかったか。最近」
「変わったこと……」
コルソのじいさんが、少し考えた。
「旅の薬師の馬が、一晩うちの柵の近くに繋いであったな。ティナの母さんの宿が満杯で、うちに頼みに来た」
「その馬は、どんな様子だったか」
「普通に見えた。元気そうだったが——今思えば、少し疲れた感じがあったか」
ノアは、胸の中でひっかかりが大きくなるのを感じた。
コラルの腹下しのとき。メルの高熱のとき。何かが起きる前に、必ずこういう感覚がある。
「じいさん、ばあちゃん——僕のばあちゃんに、話を聞きに行ってもらえるか。羊の症状を、詳しく」
「ハンナさんに? 羊の病気も、わかるのか」
「わかるかどうか分からない。でも——聞いておきたい」
コルソのじいさんが、ゆっくり立ち上がった。
「わかった。夕方にでも行く」
◇
森へ向かいながら、頭の中で考え続けた。
水じゃないかもしれない。
前の病は、水が原因だった。だから、水の確認を先にしようとする癖がついている。でも今回は、濾過システムを整えた後で、水源も定期的に確かめている。異常は出ていない。
羊から人へ。
旅の馬が来て、羊に接触して、羊が具合を悪くした。そして——次に人が具合を悪くするとしたら。
「ソラ」
「はい」
「急いで聞いていいか。ミオでもクドウでも、誰でもいい」
「美緒さんがいます」
「呼んでくれ」
境の樹の根元まで来て、袋から箱を出した。枠に明かりが灯る。ミオが、少し急いだ顔で来た。
「ノア、どうしたの。声が緊張してる」
「コルソのじいさんの羊が、二日前から具合が悪い。三頭から四頭に増えてる。旅の薬師の馬が、一晩コルソの柵の近くにいた」
ミオの顔が引き締まった。
「症状は」
「食欲がない。水を飲まない。熱がある気がする。頭を下げて動かない」
「他の村の動物は」
「まだ確認してない。今日気づいたから」
「わかった。ソラ、記録してる?」
「はい。全部記録しています」
「柳瀬先生に連絡を入れます。ノア、今から森の中を少し見てきてもらえる? 他の動物の様子を」
「それをしようとしてた」
「やっぱり」
ミオが、少しだけ口元をゆるめた。
「ノアが緊張してるとき、たいてい正しい方向を向いてる。注意深く見てきて」
◇
獣道を外れて、森の奥へ少し入った。
鳥の声を聞きながら歩く。いつもなら、木の上のあちこちから声が重なっている時間だ。でも今日は——少し、静かな気がした。
気のせいかもしれない。でも、気のせいかどうかを確かめるのが、観察だ。
しばらく歩いて、地面に目が行った。
木の根元に、小さな鳥が一羽、じっとしていた。逃げない。近づいても、羽を広げようとしない。目が、ぼんやりしている。
羊と、同じ目だ。
もう少し先へ進むと、また一羽。こちらは、横に倒れていた。生きているが、動かない。
ノアは膝をついて、近くで観察した。触れはしなかった。羽の状態。呼吸の速さ。足の向き。
「ソラ、見えてるか」
「見えています。記録しています」
「鳥が二羽、具合が悪い。羊と似た様子だ」
「美緒さんに伝えます」
立ち上がって、さらに奥へ進もうとして——足が止まった。
視線の先に、見慣れた草があった。アルダの森のそこかしこに生える、細い茎の草。
でも——色がおかしかった。
緑のはずの葉が、端から褐色になっている。枯れかけている。いや、何本かはもう完全に枯れていた。
「ネコタビ草だ」
独り言のように、声が出た。
ばあちゃんから聞いたことがある。ネコタビ草が枯れるときは、森の虫の具合が悪い。虫の具合が悪いときは、何か大きなことが起きている、と。
昔から言われていた言い伝えで、ばあちゃんも確かなことは分からないと言っていた。でも——羊が具合を悪くして、鳥が倒れて、ネコタビ草が枯れかけている。
三つが重なった。
「ソラ」
「はい」
「ネコタビ草が枯れかけてる。ミオに伝えてくれ」
「伝えます。——美緒さんが、すぐ話したいと言っています」
◇
境の樹まで戻って、枠を開いた。
ミオだけでなく、クドウも画面の前に来ていた。楓太も後ろに立っている。
「ネコタビ草というのは、どんな草か教えてほしい」
クドウが、すぐに聞いた。
「細い茎で、丸い葉が交互についてる。葉は明るい緑で、触るとざらざらしてる。村の近くの森にも生えてるけど、アルダの奥の方が多い」
「いつもの季節と比べて、枯れる時期が早いか」
「早い。今の時期に枯れるのは見たことがない。秋になってから枯れる草だ」
「ソラ、記録されてるか」
「はい」
クドウが、何かを書き留めていた。
「ノア、もう一つ聞く。その草は、今日見た場所以外にも生えてるか」
「生えてる。でも、全部確認はしてない」
「明日、できる範囲で見てきてくれ。どのあたりが枯れていて、どのあたりが枯れていないか」
「わかった」
「無理はするな。森の奥まで一人で入るな」
「わかってる」
ミオが、少し心配そうな顔で言った。
「ノア、今日の発見——羊も鳥もネコタビ草も——全部、つながってる気がする。柳瀬先生に連絡を入れたから、明日の朝には返事が来ると思う」
「ヤナガセは、こういう話がわかるのか」
「柳瀬先生は感染症の専門家だから。動物から病気が広がる話は、詳しいと思う」
ノアは、膝の上の箱を少し見た。
「水じゃないかもしれないと、来る途中から思ってた」
「なんでそう思った?」
「水源と濾過は、ちゃんと確認してる。異常がない。でも、何かがおかしいという感覚があった」
「その感覚が、大事だよ」
ミオが言った。
「ノアが『おかしい』と感じるとき、たいていおかしい。それは、ずっとそうだった」
「気のせいの可能性もある」
「でも、確かめたでしょ。気のせいかどうかを」
「うん」
「それが観察だよ」
◇
家に帰ると、ばあちゃんが夕食の支度をしていた。
コルソのじいさんが来た話を聞いたらしく、ノアが入るなり聞いてきた。
「羊の話、聞いた。森はどうだった」
「鳥も、具合が悪そうなのが二羽いた。ネコタビ草も、枯れかけてた」
ばあちゃんの手が、少し止まった。
「ネコタビ草が」
「うん」
「この時期に?」
「見たことない時期だよな」
ばあちゃんが、ゆっくり振り返った。
「昔、ネコタビ草が枯れたとき——村で大きな病が出たことがある。私が若いころの話だ。母から聞いたのか、自分で見たのか、もう混ざってしまってるけど」
「どんな病だったか、覚えてるか」
「熱が出て、体が痛くなる病だったと思う。何人か、寝込んだ。でも、みんな治った」
「治ったのか」
「治った。時間はかかったけど」
ばあちゃんが、また鍋の方を向いた。
「ソラに話しておいた方がいいな、その話を」
「今夜、聞かせてもらえるか」
「もちろん。——ノア」
「なに」
「怖いか」
ノアは少し考えた。
「少し。でも——気づいたのが早い。それだけは、よかったと思う」
ばあちゃんが、小さく頷いた。
「そうだね。気づいたなら、動ける。動けるなら、間に合う」
窓の外で、夕暮れの光が薄くなっていた。
翌日、コルソの子どもが「頭が痛い」と言いだした。




