第26話 守るということ
眠れなかった。
眠れないのは、怖いからじゃなかった。答えを探していたからだ。
クドウの問いが、頭の中でずっと回っていた。
その箱を——誰かに奪われそうになったとき、お前はどうする。
箱を守るために戦うか。
そうじゃない気がした。ノアには剣もなければ、魔法もない。体の大きな大人が来れば、力ではどうにもならない。
逃げるか。
どこへ。森の奥へ持って逃げるのか。でも森に入られたら、境の樹の場所が知られる。
壊すか。
——それは、考えたくなかった。
◇
夜中すぎ、起き上がって台所へ行った。
箱を引き寄せて、蓋を少し開ける。
「ソラ、起きてるか」
「起きています」
「眠れなくて」
「クドウさんの問いを、考えていますか」
「うん」
ソラが、少し間を置いた。
「話しますか」
「聞いてほしい。答えは出てないけど」
「わかりました」
ノアは、考えながら話した。言葉にすることで、もう少し整理できる気がした。
「箱を守ることと、箱があることで誰かが傷つくこと——両方が怖い。どっちが怖いか、まだわからない」
「どういう意味ですか」
「箱を守ろうとして、誰かが傷つくかもしれない。ばあちゃんとか、ティナとか、村長とか。そうなったら——箱を守った意味がない」
「でも、箱を失うことも怖い」
「怖い。ミオたちと話せなくなる。ソラとも。それだけじゃなくて——これまで積み上げてきたものが、全部なくなる」
ノアは、膝の上の箱を見た。
「箱より、人の方が大事。それは、わかってる。でも——捨てたくない」
「その二つは、矛盾しないと思います」
ソラが、静かに言った。
「どういうことだ」
「箱より人が大事、だから人を守るために箱を捨てられる。でも、捨てたくない、だから守る方法を考える。両方、本当のことです」
ノアは、少し考えた。
「捨てたくないということは——守る理由があるということか」
「そう思います」
窓の外で、虫が鳴いていた。
夜が、少しずつ明けようとしていた。
「ソラ」
「はい」
「ありがとう。少し、整理できた気がする」
「眠れそうですか」
「もう少ししたら」
◇
翌朝、旅の薬師が村を出ていった。
ノアは家の窓から、その背中を見送った。馬の足音が遠ざかって、静かになった。
いなくなったのに、何かが残っている感じがした。
次は、もっと目的がはっきりした人間が来るかもしれない——村長の言葉が、また頭に浮かんだ。
「ノア」
ばあちゃんが、台所から呼んだ。
「クドウさんが来てるよ」
枠に明かりがある。クドウが映っていた。
「眠れたか」
「少し」
「顔色は悪くない。考えてたんだろ」
「うん」
「答えは出たか」
ノアは、椅子を引いて座った。
「出た。たぶん」
「聞かせろ」
「箱より、人の方が大事。だから——人を守るためなら、箱を手放せる。でも、そうなる前に、守る方法を全部考える。逃げることも、隠すことも、ごまかすことも含めて」
クドウが、黙っていた。
「戦わない、ということか」
「戦えない。力でどうにかできるとは思ってない。でも——戦う以外の方法を、全部使う。それが僕にできることだと思う」
「悪くない」
クドウが、短く言った。
「欲しかった答えとは少し違うが——お前らしい答えだ」
「欲しかった答えって、なんだったんだ」
「さあな」
クドウが、少し目を逸らした。
「俺も、正解を知ってるわけじゃない。ただ——お前が何も考えていないよりは、何かを考えておく方がいい。それだけだ」
「クドウ」
「なんだ」
「この箱を作ったのは、クドウだよな」
「そうだ」
「なんで作ったんだ。転送の研究をしたかったから、だけじゃないと思う」
クドウが、少し間を置いた。
ばあちゃんが、音を立てないようにして台所を出ていった。気を遣ってくれているのがわかった。
「俺がこれを作ったのは——転送技術を完成させたかったからだ。それは本当だ」
「うん」
「でも、今は違う意味で、作ってよかったと思ってる」
「どういう意味で」
クドウが、枠をまっすぐ見てきた。
「お前と繋がれたから、じゃない。この機械が——誰かの役に立てたから、だ。メルが助かった。ハンナさんの知識が記録された。村の水がきれいになった。機械を作った人間として、これ以上のことはない」
言葉が、少なかった。でも——だからこそ、重かった。
「クドウが作った機械が、ばあちゃんの知識を記録してる。それは、僕には作れなかったことだ」
「お前には作れないが、お前にしかできないことがある」
「なんだ」
「ハンナさんに話を聞けるのは、お前だけだ。村の植物を知っているのも、お前だけだ。俺たちがどれだけ機械を作っても、そこには届かない」
ノアは、少し黙った。
「お互いにしかできないことがある、ということか」
「そういうことだ」
「それが——一緒にやってる意味だな」
クドウが、短く頷いた。
何も言わなかったが、それで十分だった。
◇
「工藤さん、ノアと話してましたね」
楓太が、研究室に入ってきながら言った。
「ソラから聞いた。昨日の夜から、ずっと考えてたみたいで」
「当然だ」
工藤が、端末に向かいながら言った。
「あの問いは、簡単に答えが出るものじゃない」
「でも、出しましたね。一晩で」
「ノアはそういうやつだ」
楓太が、モニターを見た。画面の中で、ノアが肩掛け袋を担いで森へ向かっているところだった。昨日は出られなかった分、今日は早い。
「工藤さん、試作機を作ったこと、後悔してないですか」
「してない」
即答だった。
「こんなことになるとは思ってなかったけど——こんなことになって、よかったと思ってる」
「こんなこと、って」
「異世界に繋がって、あの少年と話すことになって、村の水がきれいになって、羊飼いのばあさんの知識が記録されてる——そういう全部が、想定外だった」
楓太が、少し笑った。
「想定外の方が、面白かったですね」
「研究なんて、大体そうだ」
工藤が、端末から顔を上げないまま言った。
「考えた通りになることより、考えてなかったことが起きる方が多い。それが嫌なら、研究者には向いてない」
楓太は頷いた。
モニターの中で、ノアが森に入っていった。木々の間に消えていく背中が、心なしか昨日より軽く見えた。
◇
森の中は、落ち着いた。
木の根を踏みながら、いつもの道を歩く。鳥の声がした。風が、葉を揺らした。
昨日は来られなかったから、一日ぶりだ。でも——森は変わっていなかった。当たり前のことだけど、それが少し嬉しかった。
境の樹の根元に着いて、袋を下ろした。
箱を取り出す前に、少しだけ樹を見上げた。
この樹の根元に、箱は現れた。偶然なのか、そうじゃないのか、まだわからない。でも——ここが始まりの場所だということは、変わらない。
「ソラ」
「おはようございます、ノア」
「ミオはいるか」
「います。呼びますか」
「頼む」
しばらくして、枠が明るくなった。ミオが、少し急いで来た顔をしていた。
「ノア、昨日一日来なかったから、心配してた」
「心配かけてごめん。旅の薬師のことは、ソラから聞いてると思うけど」
「聞いた。何事もなくてよかった」
「うん。——ミオ、一つ報告がある」
「なに?」
「クドウに問われたこと、考えた。答えが出た」
ミオが、少し真剣な顔になった。
「聞かせて」
「箱より、人の方が大事。だから人を守るためなら手放せる。でも、そうなる前に守れる方法を全部使う。それが答えだ」
ミオが、少しの間、黙っていた。
それから、やわらかく言った。
「ノアらしい答えだね」
「クドウも同じことを言ってた」
「そうだと思う」
ミオが、枠の向こうで少し笑った。
「私はね、ノアがそういう答えを出してくれてよかったと思う。箱を絶対に守る、じゃなくて——人が大事、だから考える、っていう順番で」
「順番が大事なのか」
「大事だと思う。何が一番大切かを知ってる人は、判断を間違えにくい」
ノアは、その言葉を少し考えた。
何が一番大切か。
それは、考えれば出てくるものじゃない。ずっと前から、知っていたことだ。ただ——言葉にするのに、一晩かかった。
「ミオ」
「うん」
「今日、ティナが畑を見に来る。昨日も来てたけど、僕がいなかったから」
「そっか。芽、出てるかな」
「まだ早い気がするけど、ティナが確かめたいって言ってた」
「そういう気持ち、わかる。種を撒いたら、毎日見たくなるよね」
ミオが、少し楽しそうに言った。
その顔を見ていたら、昨夜の重さが、少し軽くなった気がした。
◇
昼すぎ、ティナが来た。
「芽、出てた?」
「まだだと思う」
「見てみよう」
二人で家の裏に回った。
土の表面を、二人でしゃがんで覗き込んだ。
何もなかった。ただの土だった。
「やっぱり、まだか」
「当然だよ。撒いてから何日も経ってない」
「でも、見たくなるじゃない」
「そういうものか」
「そういうものだよ」
ティナが、土を少しだけ指でつついた。
「ねえ、ノア」
「なに」
「昨日、旅の薬師が来たでしょ。あれから、顔が少し変わった気がする」
「変わった?」
「なんか——落ち着いた。前より」
ノアは、少し考えた。
「考えたことがあった。夜に」
「なんの?」
「箱のことと、守ることと。いろいろ」
「答えは出た?」
「出た」
「教えて」
「人の方が、箱より大事」
ティナが、少し笑った。
「当然のことじゃない」
「当然のことを、ちゃんと確かめた。それが大事だったんだと思う」
ティナが、土から顔を上げた。
「そうだね。当然のことでも、確かめないと、いざというとき出てこないから」
「ティナ、それはどこで覚えたんだ」
「お母さんが言ってた。宿屋は、当たり前のことを当たり前にやり続ける仕事だって」
なるほど、と思った。
当たり前のことを確かめ続けることが、根を張るということなのかもしれない——種を撒いた朝にも、そう思った気がする。
◇
畑の土を眺めながら、ティナが急に立ち止まった。
「ねえ、ノア」
「なに」
「あそこの羊、様子が変じゃない?」
畑の先に、コルソのじいさんの羊の群れが見えた。
柵の外に、何頭かが群れから離れて、草も食べずに立っていた。元気なく、頭を下げたまま動かない。
ノアは、立ち上がった。
「何頭か、おかしい」
「病気かな」
「わからない。——コルソのじいさんに聞いてみる」
胸の中で、何かがひっかかった。
小さな、でも確かな、何かが。




