第22話 ヤナガセという人
夜、家に帰って箱を台所に置いた。
ミオが、向こうで別の誰かと話している声が聞こえた。知らない人の声だった。
「ミオ、誰か来てる?」
「あ、ノア。えっと——柳瀬先生が来てます」
「ヤナガセ?」
「メルのとき、相談した先生です。感染症の専門家で。今日、後でまた全部話すって言ってて——」
枠の向こうで、がたっと音がした。ミオの横に、別の顔が入ってきた。男の人だ。目の周りに付けているのは、ミオが言っていたメガネというやつだな。キョウジュと同じだ。
「この子か」
男の人が、真剣な顔で枠を覗いてきた。
「えっ——」
「ノア君と言ったね」
ソラが翻訳した。
「は、はい」
「私は柳瀬。黒川くんの古い友人だ。君のことは——聞いている」
ノアは、身が固まる感覚があった。
秘密を知っている人間が、また一人、増えた。
「全部、聞いてるんですか」
「全部じゃない。でも——メルちゃんのことは聞いた。水系感染症の治療に立ち会ったことも」
「立ち会ったって——向こうから、ですよね」
「向こうから、だ。でも——診断には十分だった」
ヤナガセが、目を細めた。
「感染症が水源由来だったこと。経口補水液と抗菌薬で対処したこと。その後、水源の除染と濾過の設置まで行ったこと。報告を受けている」
「ヤナガセは——怒ってますか」
「なぜ怒る」
「秘密にしてることに、巻き込んでしまったから」
ヤナガセが、少しの間、枠を見つめた。
「怒ってない。ただ——一つ、頼みがある」
「なんですか」
「これからも、何かあれば知らせてくれ。医療の判断が必要なときは、私を呼んでくれて構わない。一人で抱え込まなくていい」
「でも——ヤナガセに、迷惑が」
「迷惑は、かかってから言う」
ヤナガセが、短く笑った。
「後で全部話してもらう、と黒川くんに言ってある。その『全部』の中に、君のことも含まれていた。だから今日——来た」
枠の向こうで、クドウが静かに立っていた。フウタが複雑な顔でヤナガセを見ていた。
「ノア、怖かったら無理に答えなくていいですよ」
ミオが、横から言った。
「怖くはないです」
ノアは、一度深呼吸した。
「ありがとうございます、ヤナガセ。もしまた——誰かが、病気になったとき、頼んでいいですか」
「もちろんだ」
ヤナガセが、頷いた。
「それから——君の村の水の話。詳しく聞かせてもらえるか。感染症の予防という観点から、参考にしたいことがある」
「わかりました。できることを話します」
◇
「柳瀬先生が、ちゃんとノアと話してくれた」
楓太が言った。
「想定内だ」
工藤が、腕を組んだ。
「先生は——最初からこうするつもりだったと思う。話を聞いた時点で、ただの傍観者には戻れないと、わかってた人だ」
「専門家が一人、味方についた」
美緒は、モニターを見た。
柳瀬先生がノアに質問していた。水源の場所、汚染の経緯、村の人口、これまでどんな病気が出ていたか。ノアが答えていた。丁寧に、順番に。
「ノアは——話すのが上手くなってきましたね」
楓太が言った。
「昔は、言葉を探しながら、でしたけど。最近は、自分の言葉で、順番に話せてる」
「情報の整理の仕方が身についてきた」
「そうですね」
美緒は頷いた。
ソラとの会話が、毎日積み重なっている。研究室の人間と話すことで、「何を伝えると相手に伝わるか」を、ノアは少しずつ学んでいる。
知識だけじゃなくて——考え方が、変わってきている。
◇
ヤナガセが帰ったあと、ミオと少し話した。
「ヤナガセが来たこと、びっくりしました?」
「少し」
「ごめんなさい。突然だったから」
「いえ——来てくれてよかったと思う」
「そう思ってくれる?」
「うん。ヤナガセのこと、ちゃんと知りたかった。声を聞けてよかった」
ミオが、少しほっとした顔をした。
「ヤナガセは、信頼できる人ですよ。黒川先生の長年の友人で——感染症のことを、誰よりも真剣に考えてる人だと思います」
「さっきの話、聞いてて思ったんだけど」
「うん」
「ヤナガセが怒らなかったのは——メルが助かったから、じゃないと思う」
「うん?」
「正しいことをしたから、だと思う。秘密にすることが大事だとわかって、それでも命を優先した。それが——正しかったから」
ミオが、少し驚いた顔をした。
それから、やわらかく笑った。
「ノア、そういうこと、ちゃんと考えてたんですね」
「あの夜は、ずっと怖かったから。後で、なんでうまくいったのかを考えてた」
「なるほど」
「答えは出ないけど——正しいことをした人のそばには、正しい人が集まってくる気がした」
ミオが、少し間を置いた。
「私も、そう思います」
外が暗くなってきていた。
境の樹が、夜風に揺れていた。
「明日、ハンナさんに聞きたいことがあります。スズカ草の採取時期について」
「伝えておく」
「よろしくお願いします」
「ミオ」
「うん?」
「今日、噂のことを心配してたけど——ヤナガセと話して、少し落ち着いた」
「どうして?」
「一人で抱えなくていいって、ヤナガセが言ってくれたから。それは——ミオたちも、ずっと言ってくれてたことだけど。知らない人にも言ってもらえると——もっと、本当だと思えた」
ミオが、目を細めた。
「一人じゃないよ、ノア。ここに、ちゃんといるから」
「うん」
夜の森に、虫の声が戻ってきていた。
季節が、少しずつ動いていた。




