第21話 噂の足音
噂というのは、人より先に歩く。
行商人のベルクが帰った翌朝、村の空気が少し変わった気がした。
井戸に水を汲みに来た人たちが、いつもより長く話し込んでいた。僕が通ると、視線が来た。悪い視線じゃない。でも——何かを言いかけて、やめている顔だった。
「おはよう、ノア」
ベルタばあさんが声をかけてきた。羊飼いのコルソの奥さんで、村の中でも一番よくしゃべる人だ。
「おはようございます」
「聞いたよ。お前さん、薬師見習いになったんだって?」
「はい」
「そうかい、そうかい」
ベルタばあさんが、何度も頷いた。
「メルちゃんを救ったしね。ハンナさんのところで覚えたのかい?」
「はい、ばあちゃんから」
「そうかい。大きくなったねえ」
それだけ言って、水桶を持って戻っていった。
何も聞かれなかった。でも——何かを知っている顔だった。
◇
ハンナばあちゃんに話すと、「そういうもんだよ」と言った。
「村は小さい。秘密ではなくても、噂でもなくても——見ていれば、みんなわかる」
「でも、箱のことは」
「箱のことは知らない。メルを救ったことは知っている。ノアが薬師見習いになったことは知っている。それだけで、十分いろいろ思うよ」
「何を思う?」
ばあちゃんが、茶を一口飲んだ。
「出来損ないって呼んでた子が、人を救ったってことを——どう受け止めるか。人によって、違う」
「……恥ずかしいとか?」
「そういう人もいる。でも、ほとんどの人は——ほっとしてる」
「なんで」
「見直せるから。間違えてたと気づけるから」
ばあちゃんが、湯呑みを置いた。
「人はね、ノア。間違えたまま生きるより、間違いに気づける方が楽なんだよ。だから——ベルタも、ああいう顔をしてた。あれは、ほっとしてる顔だ」
◇
昼前、箱を担いで森へ向かった。
革の肩掛け袋は、思っていたより自然に肩に馴染んだ。中身が重いのはわかっているけど——森に入る荷物として、不思議なくらい違和感がない。
境の樹の根元に着いて、袋から箱を取り出した。
「ソラ、聞こえるか」
「聞こえています」
「ミオたちは?」
「今日は美緒さんが早くからいます。工藤さんはもうすぐ来るはずです。楓太さんは別の用事で遅れるかもしれないと言っていました」
「わかった」
しばらくして、枠が明るくなった。
「ノア、おはようございます」
ミオが、向こうから言った。向こうは昼前らしかったが、時間の感覚はもうあまり気にしなくなっていた。ミオが「おはよう」と言えば朝だし、「お疲れ様」と言えば夜が近い。
「おはよう、ミオ」
「昨日、行商人が来たんでしたっけ」
「うん。街で噂が出てるって、言ってた」
ミオの顔が、少し引き締まった。
「詳しく教えてもらえますか」
「リント村に、死にかけの子どもを救った少年がいるって。そういう噂が、街で広まり始めてると」
「どのくらいの規模で広まってるか、行商人は言ってましたか」
「『噂が出ている』って言い方だった。大きくはないと思う。でもベルクさんが来たってことは——少なくとも、うちの村まで届いてきてる」
枠の向こうで、クドウが椅子を引いて近づいてきた。
「ノア、その行商人——どこから来た人だ?」
「月に一度くらい来る人で、街と村を行き来してる。遠い場所から来るわけじゃなくて、この辺りの村を順番に回ってる人だと思う」
「つまり——噂の発信源は、街か」
「たぶん」
「街から来た噂が、行商人を通じてリント村に届いた。逆方向もある」
「逆方向?」
「お前の話が、誰かから誰かへ伝わって、街まで届いた、ということだ。どこかに漏れ口がある」
ノアは、少し考えた。
「……治癒師が来たとき、だと思う。ダグの父さんが街まで呼びに行って、治癒師が来た。でも、そのときにはもうメルは回復していた。治癒師は何もできなかった」
「その治癒師が、帰り道に誰かに話した可能性が高いですね」
ミオが言った。
「責めてるわけじゃないですよ。ただ——噂がどう生まれたか、わかった方が対処しやすいから」
「対処って、何をする?」
「今すぐは、何もしなくていいと思います」
ミオが、静かに言った。
「大きな噂になるかどうかは、まだわからない。でも——村長には伝えておいた方がいい」
「昨日、もう話した」
「そうか。じゃあ、大丈夫だ」
クドウが、短く言った。
「何かあれば、すぐに知らせろ。見知らぬ人間が村に来たときも、な」
「わかった」
◇
「噂が出てますね」
楓太が、研究室に入ってきながら言った。鞄を下ろしながら、モニターを一瞥した。
「ソラから聞いた。ノアと話していたのが記録に残ってた」
「街から来た噂らしい。治癒師が漏らした可能性が高い」
工藤が、端末に目を落としたまま言った。
「とはいえ——『すごい薬使いの少年がいる』程度なら、辺境の村の話として消えるかもしれない。問題は、それが大きくなったとき、だ」
「大きくなったら?」
「箱のことを疑う人間が出る。ノアのことを調べようとする人間が出る。最悪、何かを奪おうとする人間が出る」
楓太が、椅子を引いて座った。
「でも、今はまだそこじゃない」
「そうだ。今は——ノアが普通に過ごせる時間が続くことが一番いい」
美緒は、モニターを見た。
画面の向こうで、ノアが森の中に座っている。箱を置いて、近くの草を観察している。ここから見ると、ただ植物採取をしている少年だ。
誰かに見られても、おかしくない光景。
「ノアが普通でいられる間は、普通でいてもらいましょう」
美緒は言った。
「私たちは——何かが変わったとき、すぐに気づける準備をしておく」
◇
午後、薬草の採取をした。
今日は、ハンナばあちゃんに頼まれたものがある。ヒリタ草とサルベ草の補充。それから——前に虫眼鏡で観察したスズカ草の、夏前の状態を記録したかった。
スズカ草はティナが名前をつけた。ハッカに似た香りがして、葉の形がわずかに違う。ミオたちが研究室で調べたら、ハッカ系植物と近縁だが別の成分を持っていることがわかった。
今は村の水の管理に追われているから、スズカ草の研究は少し後回しになっていた。でも——余裕ができたら、続けたい。
「ソラ、スズカ草、覚えてるか?」
「もちろんです。春の終わりのサンプルのデータも記録しています」
「今の状態と比べたい。少し採って送っていいか」
「ぜひ。美緒さんたちが喜ぶと思います」
草を一枚、丁寧に採って袋に入れた。採取した日時と、葉の状態を口で説明した。ソラが記録する。
それから——隙間に葉を押し込んだ。
するりと消えた。
「受け取りました。すぐに分析します」
「ありがとう」
こういう小さなやりとりが、積み重なっていく。一枚の草が、向こうの世界の知識と繋がっていく。どちらの世界でも、一人じゃ気づけなかったことが見えてくる。
「ソラ」
「はい」
「研究って、こういうものか」
「どういうものですか?」
「少しずつ積み重ねて、少しずつわかっていくもの」
ソラが、少し間を置いてから答えた。
「美緒さんたちがよく言います。研究は一日では終わらない、と」
「じゃあ——この先も、ずっと続く?」
「ずっと続きます。でも——だから面白い、とも言います」
ずっと続く。
それが、怖いことじゃなくなった気がした。
◇
「スズカ草、届いた」
楓太が、転送窓の前で声を上げた。
小さな袋ごと届いた葉を、丁寧に取り出してトレーの上に置いた。春の終わりのサンプルと並べると、色が少し濃くなっている。葉の縁の形も、わずかに変わっていた。
「季節で変わってる」
「あたりまえといえばあたりまえですが、こうして目で見ると実感しますね」
楓太が言った。
「サルベ草と同じように、採取時期で成分が変わる可能性が高い。ハンナさんに確認する価値がある」
美緒は葉を光にかざした。
薄い、平べったい葉。こちらの世界では存在しない植物。でも——生きていた場所の土と水と光を含んでいる。
「ノアが丁寧に採って、丁寧に送ってくれてる」
「採取した日時も、状態の説明も、毎回きちんと教えてくれる」
工藤が言った。
「観察の習慣が、完全に身についている」
「ハンナさんと、お母さんから受け継いだものですよね」
楓太が言った。
美緒は頷いた。
ノアのお母さんは、水系感染症で亡くなった。もし、あのころから水の知識があれば——という思いが、頭の隅をよぎることがある。でも、それを言っても仕方がない。
今日、村の水はきれいになっている。それが、事実だ。
「分析、始めましょう」
美緒は手袋をはめながら言った。
◇
夕方、森から帰ろうとしたとき、道の途中でダグに会った。
弓を持っていた。狩りの帰りらしかった。
「なんだ、まだ森にいたのか」
「草を採ってた」
「一人か」
「うん」
ダグが、少し歩きながら、それから立ち止まった。
「お前——昨日の行商人の話、気にしてるか?」
「少し」
「俺は——」
ダグが、木の根を蹴った。小石が転がった。
「俺が、お前の薬を断わってたら、どうなってたかと思って」
「……」
「メルが、死んでたかもしれない。だから——悔しい。なんで最初から信じてやれなかったのかって」
「ダグ」
ノアは、少し考えてから言った。
「信じるのは、難しいよ。知らないうちは、特に」
「お前は——俺のことを、知らなかっただろ。それでも、止まらなかった」
「それは——メルのためじゃなくて、自分のためだったと思う。何もしないでいるのが、怖かったから」
ダグは黙っていた。
「もしあのとき断わられてても、俺はまた来たと思う。本当に困ったら、また来てくれって、言い続けてたと思う」
「……しつこいな」
「そういう性格だから」
ダグが、鼻で笑った。笑いながら、目が少し赤くなっていた。
「もう断わらない。お前が何か言ってきたら——俺は最初から聞く」
「ありがとう」
「礼はいらない。当然のことだ」
どこかで聞いたような言い方だ、と思った。
ばあちゃんもよくそう言う。当然のことだ、と。




