第20話 少年の居場所
朝、ガルドさんが来た。
扉を叩く音がして、出てみると、大きな手に革の塊を持って立っていた。
「ノア。少し、いいか」
「はい」
「これを——受け取ってくれ」
差し出されたのは、茶色い革でできた、肩掛けの袋だった。
蓋がついていて、中に布が張ってある。縫い目が細かくて、丁寧だった。馬具職人の、仕事の顔だった。
「箱を入れるものだ。サイズは、ハンナさんに聞いた」
「……」
「メルを、ありがとう」
ガルドさんの声が、低くなった。
「俺は——お前を、ひどく邪険にした。扉を閉めた。出来損ないの言うことを聞かなかった。それは、変わらん事実だ」
「ガルドさん——」
「詫びを言いたいわけじゃない。詫びだけじゃ、足りないから」
ガルドさんが、袋をノアの手に押しつけた。
「馬具職人にできることは、これくらいだ。使ってくれ」
箱を入れてみると、ぴったりだった。
高さも、幅も、奥行きも——ちょうど。革の蓋を閉めると、外からは何が入っているかわからない。肩に掛けると、両手が空く。
「ソラ」
蓋を少し開けて、話しかけた。
「聞こえますか」
「聞こえています。ノア、今の袋——外から見てもわかりませんね」
「うん。ガルドさんが作ってくれた」
「ダグさんのお父さんが」
「うん」
しばらく、間があった。
「よかったですね」
ソラが、穏やかに言った。
言葉は短い。でも——その短さの中に、何かがあった。
「うん。よかった」
◇
「ノア、箱を家に持って帰ることにしたんですね」
村長に話してから三日後、美緒がモニターを見ながら言った。
「洞に置いておくより、安全だと思って。ばあちゃんも、知っているし」
「それは正しい判断だと思います。何かあれば、すぐに話せますし」
「ガルドさんが袋を作ってくれたから、持ち運びも楽になった」
工藤が端末から顔を上げた。
「外から見てわからない、か。それはいい」
「目立ちたくない」
「当然だ。好奇心を持つ人間が増えてきたからな」
「村に、ですか?」
「メルの件が広まっている。遠くの知恵者の薬、という話が一人歩きし始めているとソラが記録していた」
楓太が、少し眉を寄せた。
「ノアが気をつけないといけない場面が増えてきますね」
「そうだ。でも——今日は、別の話をしよう」
美緒が、画面に向き直った。
「ハンナさんが、今日から一緒に話してくれると聞いています」
◇
夜、台所のテーブルに、箱を置いた。
蓋を開けると、枠に明かりが灯った。ミオが、こちらを見ていた。
ハンナばあちゃんが、向かいに座った。
「ハンナさん、こんばんは」
ミオが言った。ソラが翻訳した言葉が、台所に流れる。
「こんばんは。今日は、お願いがあって」
「はい。ソラから聞いています。薬草の知識を、一緒に整理したいと」
「そうです。ノアから話は聞いていたけれど——私が直接、話したほうが早いと思って」
ミオが、嬉しそうに頷いた。
「ぜひ。ハンナさんの知識を、ソラが記録させてもらっていいですか」
「構いません。何を聞きたい?」
「まず——サルベ草から教えてもらえますか。ノアが送ってくれたものを分析しましたが、採取の季節や、乾燥の仕方で成分が変わるかどうかを知りたくて」
ハンナばあちゃんが、少し目を細めた。
「よく気づいた。変わるよ。秋の根と、春の葉では、効き方が違う」
「どう違いますか」
「春の葉は、傷の膿を出す力が強い。秋の根は、痛みを鎮める力が長続きする。うちではずっと、使い分けてきた」
枠の奥で、クドウが何かを叩き始めた。フウタが前のめりになっていた。
「それは——採取の記録として残してもらえますか」
「ソラが記録してくれるんでしょ?」
「はい。今もしています」
「じゃあ、話すよ。サルベ草だけじゃなくて、他のものも」
ばあちゃんが、椅子に座り直した。
長い話になる、という顔だった。
◇
「工藤さん、見てください、このデータ」
楓太が端末を持って来た。
「ハンナさんが話してくれた採取時期と成分の関係——こちらで分析していたサルベ草の季節ごとのサンプルと、完全に一致しています」
「経験則が、分析と一致した」
「何十年分の観察が、データになってる」
工藤は、しばらく端末を見ていた。
「ハンナさんは、何年この村で薬師をしていると言っていたか」
「四十年以上だそうです」
「……四十年分の観察を、一晩で記録できる」
美緒は、モニターを見た。
台所のテーブルで、ハンナが話し、ノアが時々補足し、ソラが翻訳して記録している。枠越しに、美緒たちも聞いている。
「ソラがいれば、研究者が起きていなくても、記録は続けられる」
「そうです。時差も、睡眠も関係ない」
楓太が言った。
「ハンナさんが話せるとき、ソラがいる。それだけでいい」
美緒は静かに頷いた。
二つの世界を繋いでいるのは、箱だけじゃない。ソラという、眠らない記録者がいる。それがどれほど大きなことか——今夜、改めて実感した。
◇
二刻ほど話し続けて、ばあちゃんが湯呑みを置いた。
「今夜はこのくらいにしようか。続きはまた今度」
「ありがとうございました、ハンナさん」
ミオの声が、心から言っているように聞こえた。
「いいえ。私の知識も、こうして整理されるなら——無駄にならない」
「無駄なんかじゃありませんでした。最初から」
「そうかもしれないね。でも——確かめてもらえると、安心するよ」
ばあちゃんが、枠をじっと見た。
「ミオさん。ノアをよろしくね」
「もちろんです」
「この子は——長いこと、一人だった。それが、今は一人じゃない。あなたたちのおかげで」
「私たちも、ノアのおかげです」
「お互いさま、か」
ばあちゃんが、笑った。
枠の向こうでも、ミオが笑っていた。
◇
翌日の昼、ティナが来た。
「ねえ、袋! かわいくない?」
革の肩掛け袋を、ティナがじろじろと眺めた。
「ガルドさんが作ってくれた」
「いい仕事だ。触っていい?」
「どうぞ」
ティナが袋を手に取って、縫い目を確かめた。
「丈夫そう。これなら森でも安心だね」
「うん。両手が空くから、草を採りながらでも動ける」
「箱、今は家に置いてるんだよね」
「うん。洞に隠しておく必要も、なくなったから」
「村長が守るって言ったし」
「そう」
ティナが、袋をそっと返した。
「なんか——ちゃんとしてきたね」
「ちゃんと?」
「前は、全部こっそりだったじゃない。森で隠れて、誰にも言えなくて。それが今は——村長も知ってて、ばあちゃんも一緒に話してて」
「そうだな」
「ノアって、最初からそういうふうになれると思ってたよ。私は」
「……なんで」
「なんとなく」
ティナが、にっと笑った。
「逃げなかったでしょ、あの日。箱を見ても」
「怖かったけど」
「怖くても逃げない人は、たいてい、ちゃんとなるんだよ」
根拠のない話だと思った。でも——なんとなく、ティナが言うと信じられた。
その夜、ノアは家の灯りの下で箱を開いた。
ミオたちはいない時間だった。でも——ソラはいた。
「ソラ、昨夜のばあちゃんの話、全部記録できてた?」
「はい。音声も、センサーのデータも、全て残っています。美緒さんたちが起きたら、整理して共有します」
「ばあちゃん、また話したいって言ってた」
「嬉しいです。ハンナさんの知識は、私たちにとってもとても大切なものです」
「ソラは、ミオたちがいない時間も、ずっとここにいるんだよな」
「います。眠りませんから」
「じゃあ——少し話してもいいか」
「もちろんです」
ノアは、椅子に座り直した。
台所の灯りが、テーブルを照らしている。箱が、その上に静かに置いてある。革の袋から出してあるから、枠がよく見える。
「ソラ、僕はここにいていいんだと思う」
「どうして、今夜そう思ったんですか」
「ばあちゃんが話してくれた。村長が守ると言ってくれた。ティナが——逃げなかったから、ちゃんとなると思ってたって」
「みんなが、言葉にしてくれた」
「うん。言葉にしてもらうまで、わからなかった」
「人は、誰かに言葉にしてもらって、初めてわかることがありますからね」
「ソラも、そう思う?」
「私は——ノアを最初から見ていたので、ずっと思っていました。でも、言うタイミングを待っていました」
「なんで」
「ノアが、自分でそう感じるまで、待ちたかったから」
ノアは、しばらく黙っていた。
台所の窓から、夜風が入ってきた。
「ありがとう、ソラ」
「どういたしまして」
「明日、ミオたちが来たら——濾過の水を一週間後に確かめるって、伝えておいて」
「伝えます」
「おやすみ」
「おやすみなさい、ノア」
◇
三日後、ティナが広場から駆けてきた。
「ノア! ちょっと来て」
急いでいる顔だった。
広場の端に、荷馬車が一台止まっていた。行商人だ。月に一度くらい、遠くの街から来る。
「何が——」
「聞いてた。あの行商人、誰かと話してた」
ティナが、声を落とした。
行商人が、村の老人と話しているのが見えた。陽気な声で、荷物を広げながら。
「……リント村に、すごい薬使いの少年がいるって聞いたんだが」
老人が、首をかしげている。
「治癒師も来ていないのに、死にかけの子どもを救ったと——街では、そういう噂が出始めてるんだが」
ノアの足が、止まった。
街で、噂が出ている。
「ノア」
ティナが、小声で言った。
「まずい?」
「……わからない。でも」
手の中の革の袋が、少し重く感じた。
「村長に、話さないといけない」
村の外へ。
噂は、もう、出ていた。
第一部、完。
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