第19話 きれいな水
朝、ダグが家の前に立っていた。
珍しかった。ダグが僕の家の前で待っているのは、記憶にない。
「なんだ」
「上流に、一緒に行く」
「……なんで」
「お前一人じゃ、重いものが動かせないだろ」
そっぽを向きながら言った。照れているのか、怒っているのか、表情だけではわからない。でも——来てくれた、という事実だけは、はっきりしていた。
「ティナも来る」
「ティナが言い出したのか」
「俺が言い出した」
そうか、と思った。
ダグが言い出した。
「……ありがとう」
「礼はいい。さっさと行くぞ」
◇
「今日こそ、汚染の根っこを断ちます」
美緒が、朝の打ち合わせで言った。
モニターには、ノアとティナとダグが並んで歩いている映像が映っていた。三人が揃っているのを見て、楓太が「ダグさんも来たんですね」と呟いた。
「ソラ、上流の状況を整理してくれ」
工藤が言った。
「はい。前回のサンプル分析から、汚染の中心は二か所と推測されます。一つは倒木三本が川に接触している地点。もう一つは、その上流約五十メートルにある淀み——水の流れが止まっている場所です。そこに何らかの有機物が沈んでいる可能性が高い」
「獣の死骸か」
「可能性が高いです。嵐の後、増水した川に流れ込んだものが、水が引いたあとに淀みに残った——そういう経緯が考えられます」
「ノアに伝えておく」
美緒がカメラに向かった。
「ノア、今日は二か所確認してほしい。倒木の地点と——その先の、水が止まっている場所」
◇
上流への道は、昨日より楽に感じた。
ダグがいるからだと思う。倒木を飛び越えるとき、ひょいと先に行って手を差し伸べてくる。受け取るのが少し照れくさくて、でも——断る理由もなかった。
「ここが、倒木の地点」
三本の幹が川に折り重なっている場所に着いた。腐りかけた木が水に浸かって、川面が少し色づいている。
「どうする、これ」
ダグが腕を組んだ。
「川から引き離せれば、腐敗が水に混じらなくなる。幹を岸に上げて、土を盛って水と遮断する」
「やれるか?」
「三人なら、できると思う」
ティナが袖をまくった。
「やろう。私、火で乾かせば少しは軽くなると思う」
「いきなり乾かしたら、また川に引っ張られる。まず引き上げてから」
「そっか」
ダグが腰を落として、幹に手をかけた。
「俺が引く。お前ら、後ろを押せ」
「わかった」
三人で、かかった。
◇
「すごい、動いてる」
楓太が、モニターに向かって言った。
試作機のカメラ越しに、三人が倒木と格闘している様子が映っている。ダグが前で引き、ノアとティナが後ろから押す。幹が、ゆっくりと、岸の方向へ動いていた。
「子どもたちだけで、あれをやっているのか」
工藤が、静かに言った。
「ダグさん、力ありますね」
「ノアも、押している。体は小さくても、踏ん張り方を知っている」
美緒は画面を見ながら、少し笑った。
三人がそれぞれ違う。力があるダグ。火を使えるティナ。倒木の角度を読んで押す場所を指示しているノア。誰かが誰かを補っている。
「チームになってきましたね」
楓太が言った。
「ずっと前からなってた」
工藤が、短く言った。
◇
三本の幹を全部岸に上げるのに、ひと刻かかった。
ティナが魔法で乾かして、ダグが土を盛って水との間を遮断した。僕は倒木の根元を確認して、新しい土砂が流れ込みそうな部分に石を並べた。
ミオが枠の向こうから「それでいい」と言った。
「上流、まだあるんだろ」
ダグが汗を拭いながら言った。
「もう少し先。淀みがあるはずだ」
「行くか」
三人で、上流へ向かった。
五十歩ほど進んだところで、川が大きく曲がっていた。
その内側に、水が溜まっていた。流れが止まって、色がよどんでいる。匂いも、違った。草の匂いではない、重い、腐ったような匂い。
水面に、茶色い塊が浮かんでいた。
「獣だ」
ダグが、眉を寄せた。
「鹿か何かか。嵐で流されて、ここに引っかかったんだ」
「これが——水を汚してたのか」
「ミオが言ってた、有機物ってやつだ」
「どうやって取り出す?」
「僕じゃ無理だ。ダグ、できるか」
ダグが少し考えてから、太い枝を拾った。
「川に入るのか?」
「入らない。これで引っかけて、引き上げる」
ダグが枝を水面に差し込んで、塊に引っかけた。ゆっくりと、岸の方向に引き寄せる。ティナが別の枝を持って、反対側から補助した。
重い。でも——動いた。
岸に引き上げて、土を盛って埋めた。川から、できるだけ離れた場所に。
「これでいいか?」
僕は箱に向かって聞いた。
「はい、十分です」
ソラが答えた。
「あとは——川が自分で、きれいになっていきます。一週間もすれば、数値が戻るはずです」
「一週間」
「それまでは、水を沸かし続けてください。でも——沸かせば、今の水でも飲めます」
ダグが、川を見た。
さっきより、少し、流れが戻ってきた気がした。
「こんなことで、よかったのか」
「こんなこと、だから——誰でもできる。それが、一番大事だと思う」
ダグは黙っていた。
それから、ぽつりと言った。
「……お前が言うと、なんか、そんな気がするな」
◇
午後、村に戻ってから——次の仕事があった。
濾過の仕組みを、村に作ること。
ミオが、前日に説明してくれていた。布と、炭と、砂があれば作れる。知識さえあれば、村人が自分で作って、自分で保てる仕組みだ。
「材料は揃ってるか?」
ティナが聞いた。
「布は家にある。炭は竈の残りで作れる。砂は川原で拾える」
「じゃあ、やろう」
村長の許可を得て、広場の端に作業場所を借りた。
ダグが砂を運んできた。ティナが竈で炭を作った。僕が布を切って、木の桶に重ねていく。ミオが枠の向こうから「そうそう、その順番で」と言った。
上から——布、砂、炭、砂、布。
水を入れると、最初は黒っぽい色が混じって出てきた。でも——少しずつ、透明になっていった。
「きれいになってる」
ティナが、目を丸くした。
「魔法じゃないのに」
「知識だよ」
僕は、出てきた水を掬って光に透かした。
透明だった。においもない。
「これを——村の井戸の脇に置く。毎日使えるように。炭と砂は、定期的に変える必要がある」
「誰が管理するの?」
「薬師見習いの、仕事だ」
ティナが、吹き出した。
「なんか、急に立場が変わったね」
「そう、だな」
変わった、と思う。でも——やることは変わっていない。草を探して、水を確かめて、知識を積む。それだけだ。
「ミオ、これでいいか」
「完璧です」
ミオの声が、明るかった。
「ノア、本当によくやった。ノアだけじゃなくて——ダグさんも、ティナさんも」
「三人でやったから」
「うん。三人だから、できた」
◇
「美緒さん、見てください」
楓太が言った。
モニターの中で、村の広場に人が集まり始めていた。濾過の仕組みを作っているのを見ていた村人たちが、近づいてきている。
「説明してる」
美緒は、画面に顔を寄せた。
ノアが、集まってきた村人に向かって話していた。布と砂と炭の仕組みを、短い言葉で。身振りを交えながら。
子どもが一人、ノアの隣に寄ってきた。ノアが、その子に桶を覗かせた。子どもが目を丸くして、隣の大人の袖を引っ張っている。
「あの子が、村人に説明している」
工藤が、静かに言った。
「誰かから教わったことを、次に渡している」
「ノアのお母さんから、おばあさんから——受け継いできたことが、今日また、次に渡った」
楓太が言った。
美緒は、目を細めた。
モニターの中の、小さな広場。午後の光が、石畳を染めている。ノアが話している。村人が聞いている。
魔法のない世界の知識が、魔法のある世界の、小さな村に根を張っていく。
「記録、取れてますか」
「全部取れています」
ソラが、穏やかに答えた。
◇
夕方、作業を終えた広場で、ハンナばあちゃんが井戸の水を汲んでいた。
一緒に、濾過した水の匂いを確かめた。
「きれいな匂いがする」
ばあちゃんが言った。
「うん」
「コラルが腹を壊したあの日から、ずっと気になってたんだよ。何かがおかしいと思ってた。でも——どこがおかしいのかは、わからなかった」
「水だった」
「そうだね。水だった」
ばあちゃんは桶の水を一口すくって、飲んだ。
しばらく、黙っていた。
「うん。これは、きれいだ」
言葉が、シンプルだった。それが——一番、嬉しかった。
「ばあちゃん」
「うん」
「僕、役に立てた?」
ばあちゃんが、振り返った。
皺だらけの顔が、やわらかく、笑った。
「役に立った、じゃないよ、ノア」
「……じゃあ」
「みんなを、守ったんだよ」
みんなを、守った。
役に立つ、と守る、は——似ているようで、違う。
誰かの役に立つというのは、誰かに必要とされること。でも——守るというのは、必要とされる前に、自分が動くことだ。
誰にも頼まれていなかった。コラルが腹を下したとき、動いたのは僕だ。メルの熱に気づいたとき、森へ走ったのは僕だ。上流を確かめに行こうと言ったのも、濾過の仕組みを作ろうと言ったのも——僕だ。
出来損ない、という言葉が、ふと、遠くなった気がした。
消えたわけじゃない。でも——昔より、遠い。
「ばあちゃん、ありがとう」
「なんの礼だい」
「教えてくれて」
「何を」
「全部」
ばあちゃんが、また笑った。
「それは——お前が受け取ってくれたからだよ」
◇
夜、枠の前に座った。
「ミオ、今日——ありがとう」
「こちらこそ。ノアたちが動いてくれたから、こちらはただ見ていることしかできなかったのに」
「見ていてくれることが、大事だった」
「そう?」
「うん。一人じゃない、って思えたから」
枠の向こうで、フウタが何かを言った。クドウが短く頷いた。老人が、静かに微笑んでいた。
「ソラ」
「はい」
「今日の水、向こうで分析してもらえるか。きれいになってるか、確かめたい」
「もちろんです。転送窓に入れてもらえますか」
小瓶に水を入れて、隙間に押し込んだ。
「受け取りました。分析します」
しばらくして、ソラが言った。
「基準値以内です。飲料水として、問題ありません」
僕は、川の方向を見た。
暗くて、見えない。でも——あの水が流れている。倒木を取り除いて、獣を埋めて、淀みを解消した川が。
「よかった」
「よかったですね、ノア」
「来週、もう一度確かめる」
「そうしましょう。ノアが確かめて、私が分析する」
「うん」
風が、境の樹を揺らした。
春の夜の、やわらかい風だった。
「ソラ、今夜はよく眠れそうだ」
「それは、よかったです」
「おやすみ」
「おやすみなさい、ノア。よく眠れますように」
箱を洞にしまって、立ち上がった。
村への道を歩きながら、星を見上げた。
知らない並び方の、知らない星たち。
でも——今夜は、怖くなかった。
ただ、きれいだと思った。




