第18話 村の秘密
村長の家は、広場の北側にある。
石造りの、一番大きな建物だ。村で生まれた子はみんな、一度はあの扉に緊張する。鑑定の儀のとき、税の申告のとき、何か悪いことをして呼び出されたとき——。
今日の僕も、緊張していた。でも——来るまで感じていた恐さとは、少し違った。
逃げるつもりで歩いているのか、向かうつもりで歩いているのか。今日の僕は、確かに向かっている。
「ノア」
ハンナばあちゃんが、隣を歩きながら言った。
「今日は、私も一緒に話すよ」
「うん」
「お前だけに言わせない。薬師として、私も責任を持つ」
「ありがとう、ばあちゃん」
「礼を言わなくていい。当たり前のことをするだけだよ」
ばあちゃんの足取りは、いつもよりしっかりしていた。関節が痛むはずなのに、それを感じさせない歩き方だった。
広場の向こうに、ティナが立っていた。
それから——ダグが。ガルドさんとエーラさんも、一緒にいた。
「なんで——」
「村長に話すなら、受け取った側も一緒にいるべきだと思って」
ティナが言った。
「ガルドさんたちも、知る権利があるって。箱のことを」
ダグが、目をそらしながら腕を組んだ。
「俺は……メルの件で、もう半分知ってるようなもんだからな」
ガルドさんが、静かに頭を下げた。
「ノア。一緒に話を聞かせてくれないか」
「……わかった」
六人で、村長の家の扉を叩いた。
◇
村長は、六十を超えた年配の男だ。
白髪交じりの短い髪。日に焼けた顔。表情をほとんど変えない。この村で生まれ、この村で育ち、この村のために生きてきた人間の顔をしている。
「座れ」
短く言って、自分も椅子を引いた。
全員が座ると、村長はノアを見た。
「話してくれ。順番通りに」
その目が、責めていないことはわかった。でも、探っていることもわかった。現実主義者。嘘を嫌う。おかしいと思ったことは、必ず調べる。
ノアは、息を吸った。
「一月ほど前に、森で箱を拾いました。境の樹の根元に落ちていた。見たことのない、黒い箱です」
「うん」
「触れたら、光が走って、声が聞こえた。動く絵の中に、人が映っていた」
村長の眉が、わずかに動いた。
「人?」
「はい。遠い場所の——たぶん、とても遠い場所の——人たちです。魔法のない世界の、研究者だと言っています」
「魔法のない世界」
村長が繰り返した。
信じていない声ではなかった。ただ、確かめている声だった。
「言葉が違うので、最初は話せませんでした。でも——箱の中に、翻訳をしてくれるものがあって、今は少し話せます」
「メルの薬も、そこから来た?」
「はい」
「ハンナ」
村長が、ばあちゃんを見た。
「薬は、本物だったか」
「本物です。私が見て、判断して、使いました」
村長は少しの間、黙っていた。
「その箱を、見せてもらえるか」
◇
「ノアが村長に話している」
楓太が、モニターを見ながら言った。
「ソラが音声を拾っています。今のところ——ノアは順番通りに、落ち着いて話しています」
「緊張しているのに、落ち着いて話せる子だ」
工藤が、低い声で言った。
美緒はモニターから目を離さなかった。
村長の家の中が、ぼんやりと映っている。ノアが箱を持って、石造りの建物の前に立っている。建物の中はカメラの角度からはよく見えないが、複数の声が聞こえた。
「準備はできてます」
楓太が、椅子を引き寄せながら言った。
「いつ呼ばれてもいいように」
「普通にしていろ。特別なことをする必要はない」
工藤が言った。
「あちらから見れば、私たちがここにいる——それだけで十分だ」
美緒は頷いた。
何百光年分もの距離かもしれない。言葉も、重力も、夜空の星の並びも違う。それでも——この画面一枚を通じて、繋がっている。
今日は、その繋がりを、新しい人に見せる日だ。
◇
村長の家の前まで戻って、箱を取り出した。
手のひらを表面に当てる。光が走った。
枠が開いた。
ミオが、真剣な顔でこちらを見ていた。その後ろにクドウ、フウタ、そして——目の周りに何かを付けた老人の顔も見えた。
全員が、揃っていた。
「村長」
僕は、枠を村長の方へ向けた。
「この人たちです」
村長が、前に出てきた。
枠の中を、じっと見た。
ミオが、頭を下げた。静かに、丁寧に。
「はじめまして」
ソラが翻訳した言葉が、空気に流れた。
村長は動かなかった。
何秒か——沈黙があった。
それから、村長が口を開いた。
「……お前たちは、どこにいる」
「遠い場所です」
ソラが翻訳する。
ミオが、少し考えてから答えた。
「どのくらい遠いかは、私たちにもまだわかりません。でも——ノアが信頼してくれたから、こうして話せています」
村長が、ノアを見た。
「こいつらが、メルを救った薬を寄越したのか」
「はい」
「なぜだ」
「ノアが……こちらのことをよく知っていて、話してくれたからです。メルのことも、コラルのことも、村の水のことも。私たちは、できることをしたかった」
村長が、また枠の中を見た。
ミオの目を、クドウの顔を、フウタの様子を、老人の表情を——ひとつずつ、確かめるように。
現実主義者の目が、静かに動いていた。
「……ハンナ」
「はい」
「この者たちは、信じていいか」
ばあちゃんが、迷わず答えた。
「私は信じています。ノアの目を長年見てきたから。この子が信じるものを——私は疑わない」
村長は、長い間、黙っていた。
誰も、何も言わなかった。
ガルドさんが、妻の手を握った。ダグが、唇をかんで前を向いた。ティナが、息を殺して立っていた。
村長が、ゆっくりと顎を引いた。
「……わかった」
◇
「今、村長が頷いた」
楓太が、小声で言った。
美緒は息を詰めたまま、モニターを見た。
ノアが、箱を持ったまま立っている。村長が、何かを言っている。ソラが翻訳を拾っていた。
「これは——村の秘密だ」
村長の声が、低く、静かに響いた。
「外に漏らすな。家族にも、旅人にも、誰にも言うな。死んでも守らねばならん」
全員が、黙って頷いた。
「この箱は、ノアが管理する。誰かに取り上げられそうになったとき、俺に言え。村長として、守る」
ノアが、小さく頷いた。
「それから——」
村長が、ノアを見た。
「ノア。今日から、お前をハンナの薬師見習いとして、村の帳簿に記す」
静かな声だった。でも——その言葉の重さが、部屋の中に満ちた。
「村の薬師見習い、とは——」
「一人前の扱いだ。村の仕事に参加できる。薬草の管理も、お前の責任になる。それだけの働きをしたと、俺は判断した」
ダグが、目をそらした。でも——その耳が、赤くなっているのが見えた。
◇
「聞こえましたか、工藤さん」
楓太の声が震えていた。
「聞こえた」
工藤が、静かに言った。
「薬師見習い。正式に、認められた」
美緒は、目の奥が熱くなるのを感じた。
モニターの中で、ノアが立っている。表情は変わっていない。でも——背筋が、少し、伸びていた。
「よかった」
美緒は、声に出した。
誰に言うでもなく。でも——ちゃんと、届いてほしいと思いながら。
◇
帰り道、ティナが隣を歩いていた。
「ノア、聞いた? 薬師見習いだって」
「聞こえてた」
「すごくない? あの村長が、正式に認めたんだよ」
「……うん」
「もっと喜べばいいのに」
「嬉しくないわけじゃない。ただ——」
言葉が、すぐには出てこなかった。
ティナが、少し待ってくれた。
「なんか、実感がない。村長に認められることを、ずっと夢に見てたわけじゃないから」
「じゃあ、なんのために頑張ってたの?」
「ばあちゃんの手を、楽にしたかった。コラルが、またお腹を壊さないようにしたかった。メルに——生きてほしかった」
「それが全部、繋がったんじゃない」
「……そうかもしれない」
ティナが、空を見上げた。
夕暮れが近い。橙色の光が、村の屋根を染めている。
「ミオたちには、話した?」
「あとで話す」
「喜ぶと思うよ」
「うん」
境の樹の方角を見た。
あの洞の中に、箱がある。今夜、声をかけたら——ミオが出てくる。ソラが答えてくれる。フウタがうるさく騒いで、クドウが黙って頷いて、老人が静かに微笑む。
それが——当たり前になっていた。
「ノア」
ティナが、真剣な顔で言った。
「これから、もっと大変になるかもしれないよ。薬師見習いって、責任があるでしょ」
「そうだな」
「怖くない?」
「怖い。でも——一人じゃないから」
ティナが、笑った。
「そうだね。一人じゃないね」
夜、箱の前に座った。
光が走って、枠が開く。ミオが、こちらを見た。
「ノア。今日、どうだった?」
「村長に、認められた」
ミオの目が、大きくなった。
「薬師見習いとして、村の帳簿に記してもらった」
「……ほんとうに?」
「うん」
枠の向こうで、フウタが何かを叫んだ。クドウが黙って立ち上がった。ミオが、口に手を当てた。
「よかった。ノア——ほんとうに、よかった」
「ミオたちのおかげだ」
「違う。ノアがやったことだ」
「……半分ずつ、だよ」
ミオが、少し笑った。
「そうだね。半分ずつ」
風が、境の樹を揺らした。
葉が、さわさわと鳴った。
「ソラ」
「はい、ノア」
「僕、ここにいていいんだな」
少しの間があった。
「最初から、いていいんです」
ソラが、静かに答えた。
「ノアは、ずっとここにいていい」
夜の森に、星が出ていた。
あちらの世界とは違う、知らない並び方の星が——でも、同じ夜に輝いている。




